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 「史跡」のコーナーを担当することになりました植村と申します。これから都区内の幕末史跡を中心にご紹介させていただきます。第1回目は、サラリーマンの街新橋です。
新橋付近は江戸時代、大名家や旗本の屋敷が密集する武家屋敷の町であった。

新橋駅烏森口を出て、西口通りを行く。新橋5丁目住友ビル辺りは、テレビドラマで有名な遠山金四郎の屋敷があった場所である。遠山金四郎景元は北町奉行および南町奉行を務めたが、北町奉行は現在の東京駅付近、南町奉行は有楽町付近にあった。電車など無い時代だ から当たり前のことだが、職住接近していたわけである。

「遠山の金さん」といえば、桜吹雪の彫り物が連想されるが、あれはテレビドラマ用の作り話。ドラマのような見事な裁きをやってみせたのかどうか、実はそのような記録も残っていない。因みに遠山金四郎の墓は、東京巣鴨の本妙寺にある。墓の前には「名奉行 遠山金四郎景元の墓」とあるが、本当に名奉行だったかどうかも定かではない。確かなことは実在の人物だということだけなのである。

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巣鴨 本妙寺遠山金四郎の墓


遠山の金さんの屋敷だけではない。同じく新橋5丁目の塩釜公園は仙台伊達藩の中屋敷跡であるし、北側には志筑藩本堂家の屋敷があった。その西、日比谷神社の隣には岡山池田藩の屋敷があった(日比谷神社は、工事に伴い汐留側に移転している)。この付近で現在マッカーサー通りと呼ばれる道路の工事が進んでいるが、先ごろ志筑藩邸跡に当たる工事現場から食器などが発掘された。この周辺であれば、堀ったらそこここに何かお宝が見つかるのかもしれない。

余談ながら、志筑藩は高台寺党と呼ばれた伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎兄弟を生んだ。今も菩提寺である茨城県石岡の東耀寺には鈴木三樹三郎とその父、鈴木忠明の墓がある。

ここから少し西に歩けば、日比谷通りに浅野匠守終焉之地の石碑が建っている。この辺りは浅野内匠頭が切腹した田村右京大夫(陸奥一ノ関領主)の屋敷があった場所である。切腹最中という和菓子を売っている。中の餡がはみ出すほど詰まっているのは嬉しいといえば嬉しいが、これが「切腹」だと説明されてしまうと、ちょっとグロテスクにも見える。

さらに西に進んで西新橋に入ると、慈恵医大病院がある。病院の前に、東京病院発祥の地を記念した碑が建てられている。明治二十四年(1891)、高木兼寛がこの地に東京病院を設立した。のちに東京病院は慈恵医科大学付属病院となり、昭和三十七年(1962)に慈恵医大病院と改称された。高木兼寛は、吉村昭の小説「白い航跡」の主人公。当時国民病といわれた脚気の原因を解明した高木兼寛の執念を描いた長編である。

ここから北上して西新橋2丁目に入ると、南桜公園という小さな公園がある。ここは佐倉藩主堀田家の屋敷跡である。佐倉堀田家は老中や大老を務める家柄であった。幕末の佐倉城主は、九代藩主堀田正睦。正睦は老中首座として、ハリスと日米通商修好条約の締結交渉に尽した。条約調印の勅許を得るために京都に赴いたが、結果的に任務を果たせず失脚した。内政では文武、農業の振興、財政・学制の改革などを進めた。また「蘭癖」とまで評されるほど洋学に理解を示し、洋式の軍事を取り入れるとともに、蘭方医佐藤泰然を招いて順天堂を創設させた。幕末の老中というと、井伊直弼、阿部正弘ばかりに耳目が集まるが、堀田正睦も平時であれば名君として名を残したかもしれない。

ありふれたオフィスビルの立ち並ぶ新橋であるが、江戸時代の地図を片手に歩いてみると、また新たな発見がある。実は奥深い街でもあるのだ。


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慈恵医大病院前
東京病院発祥の地碑
塩釜公園
仙台藩中屋敷跡
堀田正睦像
佐倉城趾公園