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今回は、亀戸と新小岩の赤線跡を散歩します。「赤線」とは、終戦後GHQの指令によって「遊廓」が廃止された後、改めて必要性を感じた当局が設けた事実上の公娼地域で、「特飲街」、「カフェー」とも呼ばれました。赤線区域は、従来の遊廓を引き継いだケースや、私娼街を格上げするケースがありましたが、亀戸の赤線は後者の方でした。戦前の亀戸には、玉の井と並ぶ私娼街(銘酒屋街)があり、戦災で全焼した後、規模を縮小して赤線に移行しました。
亀戸には、「亀戸遊園地組合」と呼ばれる私娼の組合がありました。天祖神社には組合が寄進した玉垣が残されています(最近、東京スカイツリーへの案内板が玉垣の手前に出来たため、少し見ずらくなっています)。明治44年発行の地図「南葛飾郡亀戸町・大島町全図」(人文社から復刻版の地図が出版されています。)には、「遊園地」と書かれた広大な場所があり、当時の規模を知ることができます。「遊園地」と言えば主に子供向け・家族向けですが、「亀戸遊園地」は大人向けの遊園地だったわけです。
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新小岩の赤線(現在の江戸川区松島三丁目付近)は、戦災で焼け出された亀戸の業者の一部が移転してできた戦後派のカフェー街でした。下の写真は、一見、普通の長屋風の建物ですが、赤線の隆盛などを詳細に解説した小林大治郎さんの「新版みんなは知らない国家売春命令」(雄山閣,2008年)の口絵写真「⑦ 新小岩」にも同じ建物が掲載されています。口絵写真では、左から「YANAGIYA」、「カフエーやよい」、と並んでいて、店の前には女性が立っています。売春防止法施行後の1960年の住宅地図では、「柳すし」、「やよい」と、転業後も同じ屋号が引き継がれていたようですが、現在はまったく別の店になっています。
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新小岩のカフェー街は、通称「丸健」と呼ばれ、丸に「健」の字の赤い提灯が掲げられたそうですが、「丸健」という言葉の由来は不明です。「健全」、「健康」といったイメージを演出したのではないでしょうか。
亀戸の「遊園地」といい、新小岩の「丸健」といい、微妙なニュアンスのネーミングだと思います。
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