「堀割」バス停
 池袋駅から明治通りを王子方面に向かう都営バスに乗ると、10分ほど走ったところで「堀割」バス停に到着します。
ここに堀割という町名はないし、堀割らしき地形でもないし、堀と呼べるような池や川もないし・・・。「バス停地名学」は、バス停名を「なぜ?」と思うところから始まる“学問”です。

 バス停前で明治通りを横切る通りは、旧中山道の道筋にあたります。右へ入れば庚申塚を経て巣鴨駅へ、左へ入れば旧板橋宿から志村方面へと続いています。バスを降りて、歩道際を注意深く見ると、まず「千川上水分配堰」と刻まれた石碑に気が付きます。そして明治通りの反対側には、千川上水公園という小公園があります。すなわちここは、旧中山道と千川上水ゆかりの地であり、堀割もこれらに関係した地名であることが想像できます。
「千川上水分配堰」

千川上水は、江戸の人口増加と市街地拡張への対策として、元禄9年(1696)に玉川上水の分水として開削され、この場所から中山道の下に敷設された木管を通って、本郷、小石川、上野、浅草方面へと給水されていました。千川上水公園には、明治期に設置されたという錆びたバルブが何本か保存されていますが、柵に架かる「六義園給水用 千川上水沈殿池」の表示の通り、公園地下に水量を調節する沈殿池が造られ、戦後も昭和43年までは駒込の六義園への送水が行われていたといいます。
「六義園給水用 千川上水沈殿池」

 一方の分配堰ですが、慶応元年(1865)、滝野川の反射炉(精錬所)建設に合わせて千川上水はここから王子方面に分水され、明治期以降も旧大蔵省印刷局や王子製紙の工場で利用されていました。そしてこの分水が、堀割として開削されていたことが、堀割地名の発祥由来となりました。たったひとつのバス停から、こうした街の歴史が紐解けるのも、「バス停地名学」の醍醐味のひとつです。
分配堰碑の脇から、旧中山道西側に並行して板橋駅方向に続く通りが、千川上水路の跡になります。足元を注意して見ると、「千川上水」の文字を図案化したシンボルマーク入りのマンホール蓋をいくつか見つけることができ、確かに上水跡であることを確認できます。
シンボルマーク入りのマンホール蓋

ついでなので、旧中山道の庚申塚通りを歩いてみます。都電の庚申塚電停まで5分程度の距離ですが、その途中の左手に築年の古そうな商家があり、ガラス戸に「農産種子生産卸・東京種苗株式会社」と書かれています。江戸期からこのあたりの中山道沿いには野菜の種を売る店が多く、中山道は種子屋街道などとも呼ばれたようで、既に多くの種子屋が姿を消した現在、貴重な現役店のひとつと思われます。
シンボルマーク入りのマンホール蓋

 都電の踏み切りを越えると、旧中山道の人通りは急に増えてきます。この先のとげぬき地蔵を目指すお年寄りの姿が多いのは言うまでもありません。「おばあちゃんの原宿」こと、巣鴨地蔵通り商店街は、まさにここのことを指しています。