今回とりあげるのは、「ブラタモリ」新宿編でもちらっと取り上げられていた「玉川上水余水吐跡(たまがわじょうすいよすいばけ)の暗渠」だ。
玉川上水は、江戸時代初期、1653年に開通して以来、1901年の東京市内給水停止まで、250年にわたり江戸/東京の生活を支えた上水道だ(上流部は今でも東村山浄水場への導水路として現役)。羽村から43kmを流れてきた玉川上水は新宿御苑の北側に沿って流れて四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点)に達し、それより先は木樋や石樋で地下に潜って江戸市中に給水していた。四谷大木戸に置かれた水番所では、毎日水位の測定や水量の調節をし、余った水や大雨の後の濁り水は南側にあった渋谷川上流部につながる谷のひとつを利用した水路に流していた。これが玉川上水余水吐だ。
余水吐は、新宿御苑の敷地の東側に沿って、南に向かって流れ、現在の中央線の線路に突き当たるところで、新宿御苑から流れ出していた渋谷川に合流していた。水量の少なかった渋谷川は、この余水が流入するようになってから、水量が増したという。つまり、余水吐は渋谷川の主要な水源のひとつでもあったということになる。
新宿御苑北側の玉川上水水路は大正末期には暗渠化されたようだが、余水吐は東京オリンピック直前の渋谷川上流部暗渠化と同時期に暗渠化されたようだ。渋谷川の暗渠が道路や遊歩道となり、その姿もどんどん変化しているのに対し、余水吐の暗渠はその大部分が、いまでも何に利用されるというわけでもなく、変化の波に取り残され、ひっそりと秘境のように横たわっている。
新宿トンネルの四谷側出口の南側、新宿御苑に隣接して、柵で仕切られた細長い空間が伸びている。これが余水吐の暗渠だ。住宅地の中を回り込むと、古びた大谷石の小さな階段があって、暗渠の上に降りることが出来る。特に立ち入り禁止の看板などは立っていない。草むらの下には約2メートル四方の暗渠が埋まっている。コンクリートの柵の向こう側は新宿御苑、奥に見える青いフェンスのすぐ向こうは新宿トンネルである。喧噪の一歩裏側に、このような静寂の世界がある。
ここからしばらく南下すると、冒頭に写真をあげた、急に斜面となって下っていく地点がある。そこから先が、もともとあった谷筋と思われる。斜面の手前には堰の遺構と思しき石柱が一対残されていて、その脇にも石材が放置されている。この地点でかつて、右岸(西)側へは、新宿御苑内の玉藻池へ導水する水路が、左岸(東)側へは多武峰(とうのみね)内藤神社脇を通る水路が分水されていた。堰の遺構はその分水用と思われる。
新宿御苑は江戸時代、信濃高遠藩内藤家の中屋敷で、内藤家の屋敷神だった多武峰内藤神社も現在の御苑内にあった。明治になって内藤家が余水吐の東側に居地を移した際に神社も現在の場所に移ったが、
その頃に神社の脇に、米搗きのための水車がつくられた。この水車を回すためにひかれたのが、神社脇の水路だ。1887年(明治20年)には、この水車を動力源として内藤町一番地に日本最初の鉛筆工場である真崎鉛筆の工場が設立された。工場から発足した会社はのちに「三菱鉛筆」となった。多武峰神社脇の児童遊園の一角には、最近「鉛筆の碑」が建てられた。周囲には「四谷区内藤町壱番地」の表札を残す古い屋敷があったり、神社内には外屋敷の敷地を決めるにあたっての伝説にまつわる白馬堂があったりして、風情の残る一角となっている。すぐ近くの外苑西通り沿いには、ポンプ式の井戸もいくつか舗道上に残っている。
余水路の暗渠へ通じる道は先の階段のところしかない。新宿御苑の敷地内から見ると、木々の間から
谷筋を蛇行する暗渠沿いにはかなり古そうな家屋や要壁、伸び放題の木々が見え、時間の止まった風景となっている。
下って行くとやや谷幅は広くなり、谷沿いの家との高低差があまりなくなるが、それでも秘境感は変わらない。暗渠上の草むらの中央に一筋、獣道のように草枯れた踏跡が続いている。
暗渠は新宿御苑の南東、大京町交番のところで外苑西通りを東に越えるが、その手前には、暗渠の上にかかるアーチに塞がれた穴が残っている。アーチの上は行き止まりのトマソン的な空間になっているが、明治期の地図と比較すると、もともとは御苑の門へ右側(北東)からアプローチする小道の一部分だったことがわかる。アーチのあったあたりにはかつては池尻橋という橋がかかっており、その傍らの植木屋の納屋で、沖田総司が最期を迎えたとのことだ。
外苑西通り沿いには、橋の名前こそ記されていないものの、石組みの立派な欄干が残されている。外苑西通りが開通した時に造られたそのままの姿が残っているのではなかろうか。
この橋の下辺りはかつては「ふかんど」と呼ばれる淵で、東側から短い支流が合流していた。これより下流の暗渠上は大京町遊び場や資材置き場、四谷第六小学校の裏庭となっている。大京町遊び場は遊具の動物たちが物寂しげに佇む空間だったが、最近工事が始まり立ち入れなくなっている。
四谷第六小学校の南側は再び遊び場(児童遊園)となっている。暗渠は児童遊園の南側、中央線の土手の手前で、新宿御苑から流れてきた渋谷川本流に合流し、中央線を南に越えていく。写真手前から左に曲がり土手に突き当たる、遊具のあるスペースが余水吐、奥から中央線の線路に並行してきている未舗装の道が渋谷川の暗渠だ。中央線の土手にはかつて川が潜っていた場所に赤レンガの壁とコンクリートの構造物が残っている。この写真でもドアの壊れたロッカーの裏手の植込みに背後に赤煉瓦が見える。中央線の南側に続く渋谷川の暗渠についてはまたの機会に譲ろう。
玉川上水余水吐は、新宿御苑と住宅地に挟まれ、他に用途もないためか、暗渠化された後もかつてそこに流れていた頃の痕跡をいくつか残したまま、都心の裏側にひそんで生き残ってきた。渋谷川の暗渠がここ10年をみてもずいぶんとその姿を変えたのとは対照的だ。ただ、その空間はおそらく、たまたま残っていたに過ぎず、いつ突然なくなってしまうかもわからない。暗渠につきまとう、そういった刹那さがまた、その魅力を高めているのもまた事実ではあるのだが、願わくば誰に注目されるでもなく、このままの空間を保ち続けてほしいものだ。
余水吐は、新宿御苑の敷地の東側に沿って、南に向かって流れ、現在の中央線の線路に突き当たるところで、新宿御苑から流れ出していた渋谷川に合流していた。水量の少なかった渋谷川は、この余水が流入するようになってから、水量が増したという。つまり、余水吐は渋谷川の主要な水源のひとつでもあったということになる。
新宿御苑北側の玉川上水水路は大正末期には暗渠化されたようだが、余水吐は東京オリンピック直前の渋谷川上流部暗渠化と同時期に暗渠化されたようだ。渋谷川の暗渠が道路や遊歩道となり、その姿もどんどん変化しているのに対し、余水吐の暗渠はその大部分が、いまでも何に利用されるというわけでもなく、変化の波に取り残され、ひっそりと秘境のように横たわっている。
新宿トンネルの四谷側出口の南側、新宿御苑に隣接して、柵で仕切られた細長い空間が伸びている。これが余水吐の暗渠だ。住宅地の中を回り込むと、古びた大谷石の小さな階段があって、暗渠の上に降りることが出来る。特に立ち入り禁止の看板などは立っていない。草むらの下には約2メートル四方の暗渠が埋まっている。コンクリートの柵の向こう側は新宿御苑、奥に見える青いフェンスのすぐ向こうは新宿トンネルである。喧噪の一歩裏側に、このような静寂の世界がある。
ここからしばらく南下すると、冒頭に写真をあげた、急に斜面となって下っていく地点がある。そこから先が、もともとあった谷筋と思われる。斜面の手前には堰の遺構と思しき石柱が一対残されていて、その脇にも石材が放置されている。この地点でかつて、右岸(西)側へは、新宿御苑内の玉藻池へ導水する水路が、左岸(東)側へは多武峰(とうのみね)内藤神社脇を通る水路が分水されていた。堰の遺構はその分水用と思われる。
新宿御苑は江戸時代、信濃高遠藩内藤家の中屋敷で、内藤家の屋敷神だった多武峰内藤神社も現在の御苑内にあった。明治になって内藤家が余水吐の東側に居地を移した際に神社も現在の場所に移ったが、
その頃に神社の脇に、米搗きのための水車がつくられた。この水車を回すためにひかれたのが、神社脇の水路だ。1887年(明治20年)には、この水車を動力源として内藤町一番地に日本最初の鉛筆工場である真崎鉛筆の工場が設立された。工場から発足した会社はのちに「三菱鉛筆」となった。多武峰神社脇の児童遊園の一角には、最近「鉛筆の碑」が建てられた。周囲には「四谷区内藤町壱番地」の表札を残す古い屋敷があったり、神社内には外屋敷の敷地を決めるにあたっての伝説にまつわる白馬堂があったりして、風情の残る一角となっている。すぐ近くの外苑西通り沿いには、ポンプ式の井戸もいくつか舗道上に残っている。
余水路の暗渠へ通じる道は先の階段のところしかない。新宿御苑の敷地内から見ると、木々の間から
谷筋を蛇行する暗渠沿いにはかなり古そうな家屋や要壁、伸び放題の木々が見え、時間の止まった風景となっている。
下って行くとやや谷幅は広くなり、谷沿いの家との高低差があまりなくなるが、それでも秘境感は変わらない。暗渠上の草むらの中央に一筋、獣道のように草枯れた踏跡が続いている。
暗渠は新宿御苑の南東、大京町交番のところで外苑西通りを東に越えるが、その手前には、暗渠の上にかかるアーチに塞がれた穴が残っている。アーチの上は行き止まりのトマソン的な空間になっているが、明治期の地図と比較すると、もともとは御苑の門へ右側(北東)からアプローチする小道の一部分だったことがわかる。アーチのあったあたりにはかつては池尻橋という橋がかかっており、その傍らの植木屋の納屋で、沖田総司が最期を迎えたとのことだ。
外苑西通り沿いには、橋の名前こそ記されていないものの、石組みの立派な欄干が残されている。外苑西通りが開通した時に造られたそのままの姿が残っているのではなかろうか。
この橋の下辺りはかつては「ふかんど」と呼ばれる淵で、東側から短い支流が合流していた。これより下流の暗渠上は大京町遊び場や資材置き場、四谷第六小学校の裏庭となっている。大京町遊び場は遊具の動物たちが物寂しげに佇む空間だったが、最近工事が始まり立ち入れなくなっている。
四谷第六小学校の南側は再び遊び場(児童遊園)となっている。暗渠は児童遊園の南側、中央線の土手の手前で、新宿御苑から流れてきた渋谷川本流に合流し、中央線を南に越えていく。写真手前から左に曲がり土手に突き当たる、遊具のあるスペースが余水吐、奥から中央線の線路に並行してきている未舗装の道が渋谷川の暗渠だ。中央線の土手にはかつて川が潜っていた場所に赤レンガの壁とコンクリートの構造物が残っている。この写真でもドアの壊れたロッカーの裏手の植込みに背後に赤煉瓦が見える。中央線の南側に続く渋谷川の暗渠についてはまたの機会に譲ろう。
玉川上水余水吐は、新宿御苑と住宅地に挟まれ、他に用途もないためか、暗渠化された後もかつてそこに流れていた頃の痕跡をいくつか残したまま、都心の裏側にひそんで生き残ってきた。渋谷川の暗渠がここ10年をみてもずいぶんとその姿を変えたのとは対照的だ。ただ、その空間はおそらく、たまたま残っていたに過ぎず、いつ突然なくなってしまうかもわからない。暗渠につきまとう、そういった刹那さがまた、その魅力を高めているのもまた事実ではあるのだが、願わくば誰に注目されるでもなく、このままの空間を保ち続けてほしいものだ。
- 本田創 (ほんだ・そう)
- 東京の水2009Fragments
- 1972年、東京都生まれ。小学生の頃祖父に貰った1950年代の東京区分地図で川探索に目覚め、実家の近所を流れていた谷田川跡の道から暗渠の道にハマる。
1997年より開始したウェブサイト「東京の水」は現在"東京の水2009Fragments"として展開中。
2010年、「東京ぶらり暗渠(あんきょ)探検 消えた川をたどる! (洋泉社MOOK)」に執筆。
日本最南端の島の地理や民俗を紹介するサイト「波照間島あれこれ」も主宰。