
看板建築は昭和の風情を今に伝えるタイムカプセルです。道幅、空の広さ、昔にぎわった商店街…。街歩きの楽しさが広がります。
看板建築を見て昔の街の姿を想像する楽しみ
看板建築は、一般に再開発前の建物と考えていいでしょう。4〜5階建てのこぢんまりとしたビルにも建て替えられていないし、土地をまとめて大きなビルにもなっていないからです。古い地図をたどると、戦前ないし戦後すぐからずっとそこに建っていることが分かったりします。言い換えてみると看板建築を通じて、今歩いている街並みの昔の姿が窺いしれる、ということになります。「昭和」の街並みの雰囲気が看板建築を通じて見えてくるのです。
例えば以下のような「昔の街の姿」が看板建築から分かります。
(看板建築で見える昭和その1)昔の道の広さが分かる
みちくさ散歩の際には、道路の両脇に看板建築が残っているか確認してみてください。もし両脇にあれば、それは道路拡張がされていない道路であることを意味します。これは「昭和の道の幅」です。1〜2車線の道すじであれば、戦前からほとんどそのままの姿で残ってることを看板建築が示しています。神楽坂通りや淡島通りなどはその一例でしょう。
逆に4車線あっても、昔からその広さであったということもあります。道路を見渡して左右に看板建築が残っていたら、その道路の広さは昭和からということになります。その秘密は大震災か大空襲の後に新たにひかれた道路であるか、道路拡張をしたかのいずれかです。蔵前橋通りや三つ目通りなどで、そうした風景が見られます。
この場合、都電が昔通っていたことがほとんどで、中央の2車線分は都電のスペースであったことになります(妙に広々とした2車線道路も都電が通っていた可能性があります)。都電が走っていた頃に思いを馳せて歩いてみても楽しいでしょう。
がっかりするのは、道路の片方を一軒分つぶして道路拡張をしている現場に出会うことです。利便性の向上はありがたいのですが、看板建築のオーナーは高齢であることが多く、土地を売り払って廃業してしまうことが多いからです。一軒後ろにはマンションとチェーン店がすでに建っていたりします。執筆時点だと外苑東通りの市谷柳町交差点以南が寂しげな感じで、いくつもの看板建築が消失しています。こういう場所に出くわしたらぜひ、カメラを回して建物を保存しみてください。

(看板建築で見える昭和その2)昔の空の広さが分かる
看板建築がときどき連続しているところに出会います。長屋風に建てられた看板建築のおもしろさについてはまた改めてじっくり触れてみたいのですが、こうした風景を楽しんだとき、ふと気がつくのは「空が広い」ということです。都会を歩いていると空が狭いものですが、看板建築が連続して残っているような場所では、空がとても広がっています。これは「昭和の空の広さ」を偲ばせているのです。看板建築が流行していた時期には3階以上の高層建築を建てることはほとんど不可能でした(マンサード屋根というデザインで擬似3階建てを作っていたエピソードもあり、これもまた改めたいと思います)。当時最大規模の丸ビルでも9階建てらしいですから、九段坂の上や愛宕神社のあたりから東京が一望できたという昔話は本当なのでしょう。
逆にいうと、都内のどんな盛り場を歩いていても、2階建てが基本であって空はとても広かったということです。30メートルクラスのビルが当たり前のように建ち並ぶ現在においてそんな当時の空の広さを思い起こすことは困難ですが、実は看板建築があれば、当時の建物の高さと、空の広さを思い出すヒントになるのです。
例えば、目白通りを飯田橋より南に下ったところに数軒ほど看板建築が残っていて、それ以外は高層化が進んでいます。もし、昭和の建物の高さを思い起こすヒントとして看板建築をみちくさの指標にしてみてはいかがでしょうか。

(看板建築で見える昭和その3)昔の店一軒分の幅が分かる
看板建築の間口はあまり広くありません。普通の家の1軒分の幅といえばイメージが近いと思います。私は実測したことはありませんが、おそらく4間(約7.2メートル)くらいに収まるのがほとんどだと思います。実はこれ、「昭和の店幅」です。大規模店舗や高層ビルが建つと、当然ながら2〜3軒をまとめて建て替えを行うことになります。一階はお店で、上をマンションにする場合もやはり、昔のお店を何軒かつぶして建てることになります。つまり、看板建築が比較的残っている通りというのは、昔の店一軒の幅が残っている風景だということです。
古い店の町並みが比較的残る神楽坂商店街はお店の8割が4間以内で、町歩きが楽しめる要因のひとつと考えられています。人の足で歩いていくペースと、店が入れ替わっていくペースがほどよく調和するので、町歩きが気持ちよいものになるわけです。
神田の神保町の古書店街も間口が小さいお店が並んでいるところは、いろんなお店を「ひやかす」楽しみがありますよね。神保町もかつては看板建築の宝庫でした(今もまだたくさんありますが)。
ヒューマンスケール、なんて言葉がありますが、町を歩きながら、昭和の町のスケール感覚を楽しむことができるのもまた、看板建築のおもしろさだと思います。
(看板建築で見える昭和その4)昔の商店街が分かる
看板建築は基本的に商業建築です。個人宅を最初から建てるのであれば、前面に看板状の壁面を作る必要がないからです。ところが、駅から離れた古い道筋をさまよっていると、個人宅となった看板建築が連なっているところに出会うことがあります。これは、かつては商店街であったものが、今ではさびれてしまい、オーナーさんもお店を廃業して自宅利用にリフォームしたことを示しています。つまり、昭和の頃にはこのあたりが商店街であった、ということです。
今では商店街が残っているのは駅前に限られます。あるいは大規模店舗がほとんどの買い物のニーズを満たしています。駅から何分も離れたところに商店街があった、といわれてもぴんとこないのではないでしょうか。
しかし昭和も50年代の頃(1980年くらい)までは大量仕入れ・安売りをする大規模店舗はほとんどありませんでした。当時は歩いていける範囲に商店街が点在しており、主婦は籐の買い物かごを持参して(白い割烹着姿で!)夕食のおかずを買い物していたものなのです。
ときどき、一階部分は普通の家に手直ししていながら、二階のファサードには屋号が残っていたりすることがあり「ああ、ここはたぶん魚屋さんだったのか」などと気づかされることもあります。すでに店はたたんで、看板建築の様式だけが昭和の商店街の残り香を漂わせている道を歩く、というのは時間を気にせず楽しむみちくさならではの醍醐味ではないでしょうか。

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看板建築を通じて見えてくる「昭和」の楽しみ方をいくつかまとめてみました。実は看板建築は「50年前の街並みのタイムカプセル」なのです。看板建築を昭和のよすがとして、みちくさ散歩を楽しんでみてください。
(撮影地: 台東区上野、世田谷区代田・太子堂、新宿区水道町、港区浜松町、目黒区目黒本町、文京区大塚・千石、板橋区成増、千代田区飯田橋あたり)

- 山崎俊輔(やまさき・しゅんすけ)
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- 1972年生まれ。本業はファイナンシャルプランナー。資産運用とか年金のことを分かりやすく書いたりしゃべるのが仕事。副業はオタク。ゲーム・マンガ・街歩きを同時並行的に好む。所属学会は日本年金学会と東京スリバチ学会。Twitterアカウントは@yam_syun