JR市ヶ谷駅から靖国通りを九段下へ向かうバスに乗ると、左手に靖国神社の森が見えてくる少し手前あたりに、今回ご紹介する「一口坂」バス停があります。
このバス停、ローマ字表記は「Hitokuchizaka」であり、車内のアナウンスも「次はヒトクチザカ」と放送していますが、これを「イモアライザカ」と読む人がいたら、かなりの地名通といえるでしょう。この場所にはかつて都電の一口坂電停があり、これを初期の頃(市電時代?)は「イモアライザカ」と称したようですが、私も、一口坂は本来「イモアライザカ」と読むべきではないかと思っています。
同じ千代田区内にもうひとつ、御茶ノ水駅に近い淡路坂に、一口坂と書いて「イモアライザカ」と読ませる別名があります。これは現在神田駿河台1丁目にある太田姫稲荷神社が昭和6年まで淡路坂上にあり、一口(いもあらい)稲荷と別称されていたことに因んでいます。「イモ」は疱瘡を意味する「ヘモ」の転化で、「アライ」は「洗い」、すなわち「イモアライ」とは「疱瘡を治す」の意で、もとは太田道灌が疱瘡神として知られた山城国一口(いもあらい)の里(現在の京都府久御山町)の社を江戸城内に勧請したことに始まると伝えられ、家康入府の際に神田へ移されたものといわれます。バス停のある一口坂については、その由来が定かではありませんが、こちらも江戸城に近い立地であることを考えると、道灌ゆかりの一口稲荷が両方の一口坂に関係しているのかもしれません。
ではなぜ、京都の一口は「イモアライ」と読むのでしょうか。残念ながらこれについては諸説あり、定説はありません。私なりに理解しているのは、集落の三方が沼で囲まれ、入口が一つしかなかったことから「一口」の地名が生じ、かつ、沼は淀川へ通じ、宇治や京都への船運の入口となる立地であったことから、疫病の侵入を防ぐ意味で「イモアライ」の疱瘡神を祀ったとする説です。「一口のイモアライ」と呼ばれていたものが、いつの頃からか単に「一口」と書いて「イモアライ」と読むようになったといわれます。他にも様々な説がありますので、興味のある方は是非調べてみて下さい。
さて、その一口坂ですが、バス停前の交差点から真っ直ぐに北へ下り、外濠へ至る坂が一口坂です。現在は坂そのものにはこれといって特色もありませんが、坂沿いには一口坂の名を冠したビルや店舗が並び、音楽や映像関係者にはお馴染みの一口坂スタジオも、坂の中腹に面しています。
坂下に続くのは外濠を渡る新見附橋ですが、よく見ると橋状なのはJRの線路を跨ぐ部分のみで、濠を越える部分は築堤になっており、左右の濠の水位を調整するような役目を担っているらしく思われます。「見附」を名乗る橋ですが、江戸城外郭門の見附とは関係が無く、明治期に麹町と牛込の行き来の便の為に架けられた橋で、数ある外濠の橋の中では、最も存在感の薄い橋かもしれません。
新見附橋手前からは、外濠公園に入ることができます。入口には「東京市外濠公園」と右から左へ刻まれた表示が残り、歴史を感じさせます。木立の間を縫うように歩き進むと、あっという間に市ヶ谷駅へと辿り着きます。
同じ千代田区内にもうひとつ、御茶ノ水駅に近い淡路坂に、一口坂と書いて「イモアライザカ」と読ませる別名があります。これは現在神田駿河台1丁目にある太田姫稲荷神社が昭和6年まで淡路坂上にあり、一口(いもあらい)稲荷と別称されていたことに因んでいます。「イモ」は疱瘡を意味する「ヘモ」の転化で、「アライ」は「洗い」、すなわち「イモアライ」とは「疱瘡を治す」の意で、もとは太田道灌が疱瘡神として知られた山城国一口(いもあらい)の里(現在の京都府久御山町)の社を江戸城内に勧請したことに始まると伝えられ、家康入府の際に神田へ移されたものといわれます。バス停のある一口坂については、その由来が定かではありませんが、こちらも江戸城に近い立地であることを考えると、道灌ゆかりの一口稲荷が両方の一口坂に関係しているのかもしれません。
ではなぜ、京都の一口は「イモアライ」と読むのでしょうか。残念ながらこれについては諸説あり、定説はありません。私なりに理解しているのは、集落の三方が沼で囲まれ、入口が一つしかなかったことから「一口」の地名が生じ、かつ、沼は淀川へ通じ、宇治や京都への船運の入口となる立地であったことから、疫病の侵入を防ぐ意味で「イモアライ」の疱瘡神を祀ったとする説です。「一口のイモアライ」と呼ばれていたものが、いつの頃からか単に「一口」と書いて「イモアライ」と読むようになったといわれます。他にも様々な説がありますので、興味のある方は是非調べてみて下さい。
さて、その一口坂ですが、バス停前の交差点から真っ直ぐに北へ下り、外濠へ至る坂が一口坂です。現在は坂そのものにはこれといって特色もありませんが、坂沿いには一口坂の名を冠したビルや店舗が並び、音楽や映像関係者にはお馴染みの一口坂スタジオも、坂の中腹に面しています。
坂下に続くのは外濠を渡る新見附橋ですが、よく見ると橋状なのはJRの線路を跨ぐ部分のみで、濠を越える部分は築堤になっており、左右の濠の水位を調整するような役目を担っているらしく思われます。「見附」を名乗る橋ですが、江戸城外郭門の見附とは関係が無く、明治期に麹町と牛込の行き来の便の為に架けられた橋で、数ある外濠の橋の中では、最も存在感の薄い橋かもしれません。
新見附橋手前からは、外濠公園に入ることができます。入口には「東京市外濠公園」と右から左へ刻まれた表示が残り、歴史を感じさせます。木立の間を縫うように歩き進むと、あっという間に市ヶ谷駅へと辿り着きます。
- 岩垣 顕
- 雑司が谷の杜から 東京再発見への誘い
- 1967年生まれ。坂、川、街道、地名、荷風など、様々な切り口で東京の街歩きを楽しむ散歩人。著書に、「歩いて楽しむ江戸東京旧街道めぐり (江戸・東京文庫)」「荷風片手に 東京・市川散歩」「荷風日和下駄読みあるき」など。