熱田神宮
尾張名古屋には熱田神宮という大社がある。そこには伊勢の神宮とよく似た蕃塀が存在する。

熱田神宮の「蕃塀」



「みちくさ」とはちょっと言い難い蕃塀シリーズの最終回は、三種の神器の一つである草薙剣をご神体とする「熱田神宮」の蕃塀を取り上げてみたいと思う。

前回は、伊勢の神宮の蕃塀を紹介した。それは愛知県尾張地域によく見られる「連子窓型蕃塀」とは全く異なる「衝立型蕃塀」であった。そして、本来の「蕃塀」をいう言葉は、伊勢の神宮の衝立型蕃塀を指すものであって、尾張の連子窓型蕃塀は「蕃塀」ではない可能性を考えた。今回はそのことを少し掘り下げて考えてみよう。
み009-2熱田神宮08


織田信長が桶狭間の戦いの前に戦勝祈願をしたと伝えられる熱田神宮は、全国でも屈指の大社である。その蕃塀は、拝殿前の参道脇に存在する。現在の蕃塀(冒頭の写真)は、創祀1900年の記念造営事業に伴い平成21年に新たに建て替えられたものであるが、形は以前のもの(上の写真:2007年4月撮影)と大きくは変更されていない。その構造は、柱が4本建てられその間に横板がはめ込まれた板塀である。伊勢神宮の蕃塀と比べると、基壇と礎石を持つ点が異なっているが、木造衝立型蕃塀であることに相違はない。私の知る限り、この木造衝立型蕃塀は伊勢神宮と熱田神宮にしか存在しない特別なものといえる。
み009-3


さて、ここに一枚の江戸時代に作られた図がある。1841年頃に刊行された『尾張名所図会』の「熱田大宮全図」には、正殿と土用殿、渡殿、祭文殿、拝殿、勅使殿などの社殿が描かれている。この中で「透垣(すいがい)」が蕃塀に相当する施設である(上の写真の矢印部分)。この透垣はどのように見ても連子窓型蕃塀に見える(下の写真はその拡大図)。つまり、江戸時代には熱田神宮には木造衝立型蕃塀が無かったのである。
み009-4名所圖會熱田宮5


では、いつから熱田神宮の蕃塀は連子窓型蕃塀から木造衝立型蕃塀に変わったのだろうか。

現在の熱田神宮の社殿は伊勢の神宮と同じ「神明造」と呼ばれる建築様式である。これは、明治26年(1893)に旧来あった「尾張造」という建築様式を廃して改築した結果である。明治時代、三種の神器を祀る熱田神宮は伊勢神宮と同格にすべきという主張があり、その中でさまざまな運動が行われた。「神明造」に改築した事業もそうだし、「透垣」と表記された連子窓型蕃塀が木造衝立型蕃塀に作り替えられたのもその流れだっただろう。そして、もともと「不浄除け」とか「透垣」とか「籬(まがき)」などの名称も、「蕃塀」という呼び方にされたと推測できるのだ。しかし、こうしたさまざまな活動の甲斐もなく、熱田神宮は最終的に伊勢神宮と同格にはなっていないのである。
み009-5熱田神宮新17


蕃塀マニアが追いかけている尾張地域に多い謎の塀は、もともとは「蕃塀」ではなかったという、シャレにもならない事実が発覚したわけで、本当はペンネームも「不浄除けマニア」とかにするべきだったかもしれない。しかし、もう今さら名前を変えるわけにはいかないし、そういったいろいろな経緯を全部含めてこれからも「蕃塀」と呼んでいくことにしたいと思っている。




  • 蕃塀マニア

  • 蕃塀マニア

  • 愛知県出身。某団体職員。2006年に愛知県豊橋市所在の石巻神社の蕃塀を見て、それが「蕃塀(ばんぺい)」という名前のものであることを知り、それから蕃塀の調査を開始した。