新宿御苑
新宿御苑
 都内各所に散在する広大な公園は、大概かつて大名家の屋敷跡である。たとえば日比谷公園は佐賀藩鍋島家の上屋敷、長州藩上屋敷跡であるし、清澄庭園は下総関宿藩久世家の下屋敷跡、芝離宮恩賜庭園は紀州徳川家屋敷跡、有栖川記念公園は陸奥南部藩下屋敷(維新後、有栖川家のご用地)であった。そして新宿御苑は、信州高遠藩の下屋敷跡である。明治初年、この広大な土地を引き継いだ明治新政府は、殖産興業の一環として農作物の試験場とした。その後明治11年(1878年)、当時の内務卿大久保利通によって農学校とされ、目黒駒場に移転した。

 新宿は、日本を代表する都会である。新宿駅の平均乗降客数は一日三百万人を超え、ギネスの認定する世界一という。駅を出ると、目が回るくらいの雑踏であるが、その中にあって史跡を訪ねようという人間は何人いるだろう。猥雑な街に寺院が散在している。この一見して場違いな感じが東京の魅力でもある。
 まず西口を出て、高層ビルの林立する間に常圓寺がある。常圓寺の墓地には幕臣筒井政憲の墓がある。筒井政憲は昌平黌に学び、その後長崎奉行から南町奉行に転じ、在任期間は約二十年に及び名奉行と賞された。 “幕末”を迎えたとき、既に七十歳の老人であったが、外交政策の立案、海岸防備の策定に関与した。嘉永六年(1853)には長崎に来航したプチャーチンと会談し、日露和親条約締結の全権も務めた。安政六年(1859)六月、八十二歳で没した。

常圓寺筒井政憲墓


 今度は東口に移動して新宿三丁目駅方面に向かう。駅の近くに成覚寺がある。
 成覚寺の墓地に幕臣塚本明毅の墓碑が建つ。隣に塚本家の墓があるが、明毅の墓は昭和三十年代の境内地整理のときに整理されており、現在は墓碑のみが残っている、この墓碑は明治二十八年(1895)建立、篆額は榎本武揚、撰文は川田剛、書は田辺太一。塚本明毅は天保四年(1833)江戸下谷に生まれた。昌平黌に学んだ後、安政二年(1855)、長崎海軍伝習所一期生に選ばれた。その後も幕府海軍で重きを成した。維新後、徳川家に従って静岡に移住。沼津兵学校で一等教授を務めた。明治四年(1871)新政府に出仕して、兵学教授等を務めた。その後は、内務省地理局で地誌の編纂にあたった。明治五年(1872)には太陽暦への改暦を建言し、その遂行に尽力した。権大内史兼法制課長、一等編修館、内務省御用掛、内務省書記官を歴任。明治十八年(1885)、五十三歳で死去。

成覚寺塚本明毅墓碑


東新宿の住宅街の中に、西光庵という浄土宗の寺がある。ここに尾張藩主徳川慶勝と慶勝の三男で戊辰戦争では東海道先鋒を務めた義宜の墓がある。
 徳川慶勝は、第十四代尾張藩主。元治元年(1864)の長州征伐では総督に任じられ、広島まで進出したが西郷隆盛と謀って砲火を交えず撤兵した。慶應二年(1866)の第二次長州征伐では名義が立たないとして総督を辞退した。明治十六年(1883)逝去。享年六十。
 徳川義宜(よしのり)は、六歳で家督を継ぎ十六代尾張藩主となった。戊辰戦争時わずか十歳の義宜は新政府軍東海道征討軍の先鋒を務めた。明治八年(1875)十八歳という若さで世を去った。義宜のあと、慶勝が再び尾張藩主に復帰し、最後の藩主となった。

西光庵従一位勲ニ等徳川慶勝卿墓


故従三位徳川義宜之墓菅功院殿智賢保徳大居士
(竹内下野守保徳の墓)


 同じく東新宿の養国寺の境内は、鬱蒼とした雑木林のようであり昼間でも薄暗い。境内の周囲に墓地があるが、その北東隅辺りに幕末遣欧使節正使としてイギリスほか六カ国を歴訪した竹内下野守保徳の墓がある。墓石は汚れて見辛いが、辛うじて法名を読み取ることができる。
 竹内保徳は、老中阿部正弘に抜擢されて勘定組頭から勘定吟味役に進み、嘉永六年(1853)ペリー来航を受けて台場建造を進言した。安政元年(1854)には堀利煕とともに箱館奉行に任じられ、海防や開発に治績を上げた。文久元年(1861)勘定奉行兼外国奉行。攘夷運動が活発化し、開港開市延期が不可避となりその交渉のために遣欧使節団の正使に任命された。欧州四カ国と開港延期の承諾を得るなど成果を持ち帰ったが、帰国後は冷遇され西丸留守居役に左遷されて、以後活躍の機会は訪れなかった。慶應三年(1867)五十八歳にて没。