「蟹川」の痕跡
日本最大級の繁華街、新宿歌舞伎町。その西端となる西武新宿線の西武新宿駅沿いの道に、わずかにV字に窪んでいる地点がある。
窪みの底からは、歌舞伎町1丁目と2丁目の境界線となっている「花道通り」が、浅い谷を緩やかにくねりながら東へ通じている。通り沿いには飲食店や遊興施設、風俗店などが入り乱れているが、それらに出入りする何十万人という人々のうち、かつて、この通りは川だったことを知る人はどれだけいるだろうか。
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今回とりあげるのは「蟹川(かにかわ)」。 金川とも記されるこの川は、西武新宿駅のやや西、JR山手線と総武線が分岐する辺りにその流れを発し、歌舞伎町にいくつかあった池の水を加えて花道通りのルートを流れ、明治通りの東側で向きを北へと変えて、戸山公園内、早稲田大学近辺を経由し、途中いくつかの支流を加えたり分流しながら地下鉄有楽町線の江戸川橋駅付近で神田川へと注いでいた。川は昭和初期には暗渠化され、現在、大部分は下水道戸山幹線となっている。暗渠化後80年以上が経過し、戦災や高度経済成長、バブルの波を経た今、都心部を貫く川の痕跡は断片的にしか残っていない。川のルートを特定するには時には古地図の助けも必要で、ややハードルの高い暗渠探訪であるかもしれない。しかし実際に、下っていくにつれはっきりしていく谷筋を見極めながら歩いてみると、かつて確かにここに川が流れていたことが実感できる。

スペースが限られているので、全体像を地図で俯瞰したうえで、ポイントをかいつまんで簡単に紹介することにする(それでも写真の枚数が増えてしまった。事務局様ごめんなさい)。



地図の左下から右上へとゆるやかなS字型を描く青いラインがかつての蟹川の流路だ。中央下からのラインは新宿2丁目の太宗寺付近に流れを発する支流、右側中央から北上するラインは牛込柳町付近に流れを発する支流だ。ピンクで囲んだ枠はかつての戸山荘(詳しくは後述)、その中の水色のエリアは戸山荘の池、水色のラインは池があったころの蟹川流路(いずれも推定)だ。以下、地図上にピンマークのあるポイントを上流側より順に紹介していこう。
 

太宗寺から流れ出していた支流の流路跡の路地。歩いてみるといかにも川跡らしい曲がり方を実感できる。道端のポンプ井戸には鏡餅が供えられ、大切にされていることがわかる。ここからやや南へと遡った靖国通りの北側は、急に落ち込む窪地になっている。この窪地には明治時代には、米相場で一財産をなした濱野氏の大邸宅があり、敷地内の大きな池は蟹川の水源のひとつだった。蟹川上流部には池や湿地が点在していて、現在のコマ劇場(跡)の南東側には大きな鴨池が、さきの西武新宿駅の窪地付近にも池があった。
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蟹川の流路跡は、ゴールデン街の北側で都電の軌道跡「四季の路」と合流する。ここから明治通りを越え新宿文化センター(都電大久保車庫跡地)付近まで、都電の路線跡が並行している。流路沿いは新田裏という字名で、明治時代前半まで、川沿いに細長く水田がひらかれていた。「新田裏」という地名は近年までバス停の名に残っていたが、日清食品前に改称されてしまった。西向天神の北側で都電の軌道跡の方の道(写真右)は坂を上っていくが、一方で川跡は下っていく。
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かつて蟹川が抜弁天通りを横切っていた地点。川跡は残っていないが、はっきりした道路のV字の窪みが、川が流れていた場所を示している。
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抜弁天通り以北はいよいよ谷が深くなる。谷底は住宅地となっていて、かつて川は幾筋かに分かれて流れていた。川跡らしき路地のそばに、染物屋があった。都心部の川跡沿いでは、染物屋が時折見られることがある。
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谷の東側の斜面沿いで見つけた銭湯と階段。暗渠沿いでよく見られる光景がそろい踏みだ。東側は急で高い斜面となっていて、他にも何カ所か階段が見られた。
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本流はかなり幅広の車道となっているが、大久保通りのやや手前には、分流が細い路地として残っている。ここは今でも道路ではなく「水路敷」扱いとなっている。近辺はかつて砂利場という字名で、江戸時代にはその名の通り砂利の採掘場となっていたという。
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後編へ続く