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前編からの続き)先の暗渠路地から別の路地に入ると、道の真ん中に朽ち果てた井戸が残っていた。


大久保通りが蟹川の谷を越えるところでは、谷は幅250m、深さも10mほどあり、これを越えるために大久保通りは築堤の上を通っている。築堤の北側の広大な谷底には都営戸山ハイツと東戸山小学校、そして戸山公園が広がっている。
蟹川の流れるこの広大で深い谷は、谷底の標高が17〜22mほど、谷の西側の台地上が28〜30mなのに対し、東側〜南側の台地上は37mと西側よりもかなり高くなっている。これは、谷が下末吉面と武蔵野面と呼ばれる二つの段丘の間に形成されているためだ。より古い下末吉面にあたる南〜東側の方が、谷底から台地までの高低差が大きく、斜面も急峻となっている。写真は西側の武蔵野面の段丘上から谷に下る道の途中から北東方を眺めた風景。奥に見えるのが下末吉面の段丘だ。

谷底は江戸時代、「戸山荘」と呼ばれる、尾張徳川藩の下屋敷となっていた(地図ピンク枠)。面積と45ヘクタール江戸でも最大級の大名庭園で、庭園内には蟹川を堰止めた全長650mの池(地図水色エリア;推定)や、人工の山、そして東海道の小田原宿を再現した町並みまであったといい、今でいうとさしづめテーマパークか。ちなみに東京ディズニーランドの広さが51ヘクタールとほぼ同じだ。人工の山「箱根山」は標高43m、山手線内では最も高い山とされている。一帯は明治に入ると陸軍の敷地となり、池も明治時代後期から徐々に水を抜かれて昭和初期には完全に干上がったようだ。そして戦後には都営団地と戸山公園になった。
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団地を横切る道沿い、わずかな窪みが川のあった場所を示している。
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戸山公園内にはかつての庭園を偲んでか、せせらぎがつくられている。写真左奥から右奥、そして手前はこのせせらぎまで、かつては全て池の底となっていた。
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早稲田大学文学部敷地の東側に残る、流路跡の路地は、蟹川本流では数少ない、いかにも川跡らしい箇所だ。曲がりくねった路地に古びた大谷石の擁壁が沿っている。
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早稲田大学文学部より下流では、蟹川は谷を出て、神田川沿いの低地を流れていた。かつては一面の水田地帯の中、何本かに分かれながら流れていたようだ。明治時代後期には水田は宅地化され、流路も道路にあわせて整理された。そんな道路沿いでも、流路跡がはっきりと分かる場所も残っている。下の写真の箇所では、川は写真右奥の道路から流れて来て、左端の歩道が出っ張っているところに突き当たって直角に曲がり、歩道のところを手前に流れていた。つまり、ちょうど川跡のところが歩道になっているため、唐突に歩道が始まる形になっている。
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蟹川の旧流路跡の道路(明治後期以降はここよりやや西で、北に曲がりそのまままっすぐ神田川に注いでいた)。縁石がかつての川の流れそのままに、不必要に曲がりくねっている。周囲には印刷、製本関係の町工場が密集していて、細い道なのに車の出入りが多い。
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蟹川旧流路の支流跡の路地。この曲がりくねった路地はそのまま新宿区と文京区との境界線となっている。ここも今でも水路敷扱いとなっている。
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有楽町線江戸川橋駅近く、かつての神田川合流地点。幾度もの改修を経た神田川には、合流地点の痕跡はまったく残っていない。と、水源の歌舞伎町の標高が32mだったのに対し、合流地点の標高は4mしかない。
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蟹川の痕跡は戦後に暗渠化された川にくらべわかりづらいが、その分、古地図と実際の風景を見比べ、川のあった場所を推理しながら歩くと面白さがあると思う。例えばみちくさ学会の記事でもとりあげられている、iPhoneアプリの「東京時層地図」に収録されている地形図では、明治期、大正期のものに蟹川の流路が描かれており、蟹川探索にはうってつけだろう。そして、なによりも、実際に歩いたときの「現場での感覚」は、文章や写真だけではなかなか伝わりきれない。足に感じる上り下りの感覚、川筋や谷底独特の湿度感、目に見える町並みや地形が醸し出す空気は、現地に足を運んで初めて実感できるものだ。本流ルートすべてを辿っても4kmほど、都心なので途中に駅やバス停も多いので、ちょっとした空き時間を使って部分的によりみちしてみるものいいのではないだろうか。