今回は、前回に引き続き、「精進落とし」で賑わった遊里跡を散歩します。


江戸時代の日本人は、とくにかく旅行好きでした。私用の旅は、タテマエ上は禁足令や倹約令に反することだったので、お上の黙認が得やすい「講」と呼ばれる「寺社詣で」の団体旅行(伊勢講、富士講、大山講、成田講、御嶽講、白山講、金比羅講、厳島講、など)が各地で組織されました。中でも、伊勢神宮に参拝する伊勢講は 、「お伊勢参り」と呼ばれ、一生に一度の大旅行でした。

旅行はハレ(非日常)の行動様式で、つまり、ケ(日常)から一時的に離脱すること、ある種の「おまつり」でしたが、江戸時代は徒歩旅行が中心で日数が長いため、毎日がハレの連続というわけにはいかず、往きは、つつましく旅するのが一般的でした。これが、伊勢に到着して目的を成就すると一転して豪勢な遊興となり、ハレ 的な行為とケ的な行為のメリハリをつけました(神崎宜武:江戸に学ぶおとなの粋)。この遊興は精進落としと呼ばれ、日本独特の慣習でした。



1878年に伊勢を訪れたイギリスの女流旅行作家のイザベラ・バードは、伊勢の遊里の古市について、「伊勢神宮の2つの社群(外宮と内宮)は約5.6キロ離れている。巡礼の大半は、2ヶ所の境内のあいだの山頂にある古市に宿泊するが、ここはほとんど宿屋、茶屋、女郎屋でできている。(イザベラバードの日本紀行(下)、 講談社学術文庫)」と記していて、「巡礼地の神社がほとんどつねに女郎屋で囲まれている」ことに苦痛すら覚えました。これについて、渡辺京二さんは、「逝きし世の面影(平凡社)」の中で、「巡礼地が女郎屋で囲まれているのは、『精進落とし』が慣習になっているからで、当時の日本は、買春はうしろ暗くも薄汚いものでも なく、売春も明るいものだった。」と説明しています。

五大遊廓の一つと言われた「古市」も、現在はその面影はなく、古市三大妓楼の一つだった備前屋があった場所は駐車場になっています。
唯一、当時の面影を伝えているのが元料亭の麻吉で、現在も営業中です。



「成田詣で」も信仰と遊興を兼ねた江戸庶民の楽しみでした。成田山へお詣りして、船橋で一泊して江戸へ帰るという道中でしたが、船橋には遊廓があって、男の遊びが目的でした。船橋遊廓は、戦後は赤線(船橋新地)に移行し、現在はスナックが点在する住宅街になっています。



以上のように、江戸時代から明治にかけて、わが国では、「精進落とし」という呼び名のもとに、売春は宗教と深い関連をもっていました。