投稿も10回を数えると、そろそろ内容のパターンも固まってきた。
まずは、琺瑯看板を探す旅のレポート。もうひとつは、仁丹や金鳥、由美かおるのアース渦巻などのウンチク。
どちらも楽しんで書いているが、何か物足らない。できれば“みちくさ的”な視点で紹介できるテーマが欲しい。
…というわけで、これからは全国津々浦々にあるレトロな町並みと、そこに息づく琺瑯看板についても触れていきたいと思う。
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今回紹介するのは、愛知県豊田市足助(あすけ)町。奥三河の山あい、矢作川の支流足助川に沿った東西約2キロの町並みで、江戸時代から宿場町として栄えた町である。
足助の町を貫く街道は「中馬街道」と呼ばれ、中山道の脇往還として、三河湾で採れた塩を信州や美濃地方へ運んだ中継地となっていた。現在でも多くの商店が軒を並べるのは、その歴史による。「マンリン小路」と呼ばれる緩やかな坂に蔵が並ぶ路地や(上の写真)、レトロな看板建築、丸ポストがある風景など、まるで時間が止まったような空間がそこにはある。
さて、そんな足助町であるが、県下随一の紅葉の名所・香嵐渓が色づく晩秋と、2月から3月にかけての町おこしイベント「中馬のおひなさん」の時期を外せば、週末の町並みに観光客の姿を見ることはあまりない。
観光客で賑わう全国の古い町並みには、盗難防止の目的もあって外された琺瑯看板が、商店のショーウインドに並べられることがしばしばある。またレトロ感を演出する、あるいは客寄せのために、まったく違ったカテゴリーの看板を寄せ集めて飾っている店もある。
足助の町にはそうした滑稽さはない。何十年も時の移ろいを見続けてきた琺瑯看板たちが、役目を終えてもごく自然に町の風景と同化してなじんでいるからだ。
これからレポートで紹介していくテーマ、「レトロな町には琺瑯看板がよく似合う」には、それに見合う町を紹介していくつもりだ。
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前置きが長くなってしまったが、山あいに開かれた休耕田が霜で真っ白な冬晴れの日、愛用の自転車を駆って足助町を訪ねた。愛知環状鉄道の四郷駅まではJR中央線を乗り継いでの輪行。そこから足助の町並みまでの約15キロを、50才を過ぎた老骨に鞭打ってえっさえっさとひたすら走った(笑)。
国道153号線を離れ、足助川を渡り古い町並みに入ったところで、自転車のギアチェンジ用ワイヤーが伸びてしまった。修理道具を持ってこなかったので、目についた古びた自転車屋に飛び込むと、そこに琺瑯看板の姿があった。
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「メヤム自転車」は昭和14年創業の、名古屋にあった日帝工業(株)のブランドである。
「昔のことだで、よう分からんけどなぁ、50年くらい前のもんだらぁ」
更に、
「看板の写真、そんなようけ撮って、面白いんかい?」
僕の自転車を修理しながら、店のオヤジさんが応えてくれた。
昭和20年代から30年代にかけては自転車メーカーの隆盛期で、何百ものブランドが巷に溢れていた時代だ。琺瑯看板で宣伝をしたメーカーも多くあり、「メヤム」の看板は、これまでに関東や四国でも見つけている。
看板が撮りやすいように傘や長靴を除けてくれたオヤジさんに礼を言い、新町から本町に向かう。
次に眼に入ったのが、商店の軒下にかかる赤だしみその看板だ。
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愛知県はいわゆる“味噌王国”で、味噌カツ、味噌おでん、味噌煮込みうどんなど、何にでも味噌を使う文化が根付いている。三河地方には八丁味噌のカクキューを始め、この看板のスポンサーであるマルサンアイなど赤だし味噌を作っているメーカーが多くある。
味噌の看板が下がった食料品店は、2004年以前には他にも「サンビシしょうゆ」や「キッコートミ特撰醤油」といった地元の醸造系メーカーの琺瑯看板があった。
時の流れで看板が消えていくのは寂しいばかりだが、“定点観測”をしながら看板の行く末を見つめていく作業も僕のこだわりである。
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さて、足助町の看板でぜひとも触れておきたいモノがある。初めて訪れた日からずっと気になっている“お宝”である。田町にある酒屋の二階軒下部分に貼られた「高級清酒 玉乃輿」がそれだ。
看板に書かれた後藤酒造は、昭和18年に廃業した愛知県常滑市にあった蔵である。少なく見積もっても、この看板はすでに60年以上の歳月が経過した“お宝”なのだ。地酒には変わったネーミングの銘柄も多くあるが、「タマノコシ」は奇抜かつ秀逸だと思うが、どうだろう。
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その昔はレストランだったというアサヒビールの文字が架かる建物を過ぎ、町並みの終点である今朝平に出る手前で看板が貼られた家屋を見つけた。
イチビキは愛知県豊川市にある醸造メーカーで、江戸時代中期に中村庄左衛門が豊橋で味噌・溜を作り始めたのが起源とされている。奥三河地方では今でも廃商店などに琺瑯看板の姿を見ることができる。
また、ミツウロコは群馬県の煉炭製造会社で、豆炭・煉炭の琺瑯看板を多く作っている。地元群馬県ばかりでなく、これまでに東北や関西でも発見している。
今では一酸化炭素排出の危険もあり一般家庭からは姿を消しているが、昭和30年代は防寒や炊事に練炭や豆炭はかかせない存在だった。町のよろず屋や炭屋がこれらの燃料を扱っていたが、3枚の看板が貼られた家屋は、かつてはそんな商売をしていたのだろうか。
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ほんの数時間だったが、自転車で、あるいはのんびりと歩く散歩は、「知れば景色が変わる」という“みちくさ的視野”に立つことにより、改めて楽しく感じた。何よりもゆっくりとした目線ならではの発見も多い。板壁の雨どいに隠れた小さな琺瑯看板の存在は、クルマでは決して気づくことはなかっただろう。
レトロな町並を歩けば、それだけで興味を引く対象物でいっぱいだ。酒蔵や古い商店、木製の牛乳箱や路地の風景…どれも琺瑯看板探しの副産物として、夢中になって切り撮ってきた。
確かに、標本箱に並べる作業は楽しいが、何だか無機的でもある。
そこに住まう人々とのふれあいがあって、自分にとっての価値観が変わるのだと思いたい。(取材2010.12.23 他多数)

※今回見つけた琺瑯看板たち
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  • つちのこ
  • 琺瑯看板探険隊が行く
  • 1958年名古屋生まれ。“琺瑯看板がある風景”を求めて彷徨う日々を重ねるうちに、「探検」という言葉が一番マッチすることを確信した。“ひっつきむし”をつけながら雑草を掻き分けて廃屋へ、犬に吼えられながら農家の蔵へ、迫ってくる電車の恐怖におののきながら線路脇へ、まさにこれは「探検」としか言いようがないではないか。