JR有楽町の駅を東側に降りて、銀座方面に向かう。銀座のメイン・ロード(国道15号線)と首都高速が交わるところが京橋である。
京橋は日本橋と同じく慶長年間(1596~1614)に架橋された由緒あるものであるが、現在は高速道路の下に埋もれ、欄干を模した記念碑が建てられているのみである。ここに警察博物館がある。入場無料。
警察博物館には展示室が四階まであるが、二階の「川路大警視コーナー」「西南の役関連資料」は是非見ておきたい。ここには川路利良が警官の在り方を示した『警察手眼』や、『龍泉遺稿』(龍泉は川路の雅号)などとともに、川路が実際に使用していた制服やサーベルの実物が展示されている。
京橋の記念碑からすぐの場所に瓦斯銀座之碑とガス灯が建てられている。
銀座の地名の由来は、幕府が丁銀や小粒銀などの銀貨を鋳造するために銀座役所を置いたことにある。享和元年(1801)に汚職事件から日本橋蛎殻街(かきがらちょう)に銀座は移転させられてしまう。明治二年(1869)の東京遷都を機に、通称の銀座を正式名称とすることになった。
明治五年(1872)二月、火事により銀座は全焼した。延焼は築地にまで及んだという。当時の東京府知事由利公正は、銀座全域にわたって燃えにくい煉瓦造りで再建することを建言し、政府はこれを容れて煉瓦造り二階建てアーケード式洋風建築を国費で建造した。煉瓦銀座之碑の床面に敷き詰められた煉瓦は当時使用されたもの、背後に建っているガス灯の灯柱も明治七年(1874)製の実物を使用し、当時の灯具を忠実に再現したものである。
銀座二丁目の交差点近く、ビルの壁面に目立たぬレリーフが埋め込まれている。明治十五年(1882)十一月、当地に初めてアーク灯が灯され、銀座に不夜城が現出した。当時の模様を描いた錦絵を彫刻したものである。銀座は、洋風建築が立ち並び、鉄道馬車が走る文明開化の象徴的な街となった。
さらに南に向かって歩く。
銀座四丁目にある木村屋総本店に掲げられている「木村屋」の大看板は、山岡鉄舟の揮毫によるものである。明治初年の大火のあと、資生堂や服部時計店などとともに、木村屋も銀座に進出した。その頃から銀座は洋風でハイカラな街へと発展したのである。明治八年(1875)、明治天皇が向島の水戸徳川家下屋敷に行幸の折、当時侍従を務めていた山岡鉄舟より、木村屋のあんぱんが献上された。天皇、皇后両陛下は非常に気に入り、引き続き上納するようにとの栄誉を賜った。
銀座の松坂屋前には、「商法講習所跡」と記された石碑が建てられている。商法講習所は、明治八年(1875)、駐米日本代理公使を終えて帰国した森有礼が、渋沢栄一、福沢諭吉、大久保一翁(当時の東京府知事)の協力を得て設立した私塾である。その後、改称、改編を繰り返し、一橋大学に発展した。
ここまで来れば新橋駅は近いが、大した距離ではないので未だ体力には余力があるはず。時間に余裕があれば、旧新橋停車場 鉄道歴史展示館まで足を伸ばしたい。我が国最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅が、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現されている。この駅舎は明治五年(1872)に建設されたもので、現在は鉄道歴史展示館として活用されている。因みに現在のJR新橋駅はかつて烏森駅と呼ばれていた。大正十三年(1914)に旅客ターミナルの機能が新設された東京駅に移り、同時に烏森駅が新橋の名を引き継ぎ、旧新橋駅は汐留駅と改称されて貨物駅となった。旧駅舎は関東大震災で焼失してしまったが、平成になって遺構の発掘調査が行われプラットホームや構内の礎石が発掘された。合わせて駅舎も再建されたが、不思議と周囲のモダンな街並みに溶け込んでいる。
新橋駅に戻る道すがら、汐留の日本テレビ・プラザ辺りはかつての仙台藩上屋敷跡である。遺構らしきものは一切残っていないが、日本テレビの前の柱に説明プレートが掲示されている。一見すると史跡とは縁遠い場所であるが、このような説明が加えられていることは大変喜ばしく思う。
京橋は日本橋と同じく慶長年間(1596~1614)に架橋された由緒あるものであるが、現在は高速道路の下に埋もれ、欄干を模した記念碑が建てられているのみである。ここに警察博物館がある。入場無料。
警察博物館には展示室が四階まであるが、二階の「川路大警視コーナー」「西南の役関連資料」は是非見ておきたい。ここには川路利良が警官の在り方を示した『警察手眼』や、『龍泉遺稿』(龍泉は川路の雅号)などとともに、川路が実際に使用していた制服やサーベルの実物が展示されている。
京橋 | 瓦斯銀座之碑 | ガス灯 |
京橋の記念碑からすぐの場所に瓦斯銀座之碑とガス灯が建てられている。
銀座の地名の由来は、幕府が丁銀や小粒銀などの銀貨を鋳造するために銀座役所を置いたことにある。享和元年(1801)に汚職事件から日本橋蛎殻街(かきがらちょう)に銀座は移転させられてしまう。明治二年(1869)の東京遷都を機に、通称の銀座を正式名称とすることになった。
明治五年(1872)二月、火事により銀座は全焼した。延焼は築地にまで及んだという。当時の東京府知事由利公正は、銀座全域にわたって燃えにくい煉瓦造りで再建することを建言し、政府はこれを容れて煉瓦造り二階建てアーケード式洋風建築を国費で建造した。煉瓦銀座之碑の床面に敷き詰められた煉瓦は当時使用されたもの、背後に建っているガス灯の灯柱も明治七年(1874)製の実物を使用し、当時の灯具を忠実に再現したものである。
東京銀座通電気灯建設之図 | 木村屋 | 商法講習所跡 |
銀座二丁目の交差点近く、ビルの壁面に目立たぬレリーフが埋め込まれている。明治十五年(1882)十一月、当地に初めてアーク灯が灯され、銀座に不夜城が現出した。当時の模様を描いた錦絵を彫刻したものである。銀座は、洋風建築が立ち並び、鉄道馬車が走る文明開化の象徴的な街となった。
さらに南に向かって歩く。
銀座四丁目にある木村屋総本店に掲げられている「木村屋」の大看板は、山岡鉄舟の揮毫によるものである。明治初年の大火のあと、資生堂や服部時計店などとともに、木村屋も銀座に進出した。その頃から銀座は洋風でハイカラな街へと発展したのである。明治八年(1875)、明治天皇が向島の水戸徳川家下屋敷に行幸の折、当時侍従を務めていた山岡鉄舟より、木村屋のあんぱんが献上された。天皇、皇后両陛下は非常に気に入り、引き続き上納するようにとの栄誉を賜った。
銀座の松坂屋前には、「商法講習所跡」と記された石碑が建てられている。商法講習所は、明治八年(1875)、駐米日本代理公使を終えて帰国した森有礼が、渋沢栄一、福沢諭吉、大久保一翁(当時の東京府知事)の協力を得て設立した私塾である。その後、改称、改編を繰り返し、一橋大学に発展した。
ここまで来れば新橋駅は近いが、大した距離ではないので未だ体力には余力があるはず。時間に余裕があれば、旧新橋停車場 鉄道歴史展示館まで足を伸ばしたい。我が国最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅が、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現されている。この駅舎は明治五年(1872)に建設されたもので、現在は鉄道歴史展示館として活用されている。因みに現在のJR新橋駅はかつて烏森駅と呼ばれていた。大正十三年(1914)に旅客ターミナルの機能が新設された東京駅に移り、同時に烏森駅が新橋の名を引き継ぎ、旧新橋駅は汐留駅と改称されて貨物駅となった。旧駅舎は関東大震災で焼失してしまったが、平成になって遺構の発掘調査が行われプラットホームや構内の礎石が発掘された。合わせて駅舎も再建されたが、不思議と周囲のモダンな街並みに溶け込んでいる。
新橋駅に戻る道すがら、汐留の日本テレビ・プラザ辺りはかつての仙台藩上屋敷跡である。遺構らしきものは一切残っていないが、日本テレビの前の柱に説明プレートが掲示されている。一見すると史跡とは縁遠い場所であるが、このような説明が加えられていることは大変喜ばしく思う。
旧新橋停車場 鉄道歴史展示館 | 仙台藩上屋敷跡 |