あまりにもストレートなタイトルですけど、タイトルどおり今回はあのお江さんゆかりの神社境内にある男坂&女坂をみちくさしてみました。
神社の名前は西久保八幡神社とよばれ、場所は港区虎ノ門というわかりやすくいえば東京タワーから徒歩数分のところにあり、神社の入口は桜田通りというあの桜田門につながっているとおりに面しています。
ちなみに公式HPによると、
『(略)そのお江(崇源院)ですが、家康公と秀忠公が関ヶ原の戦いに臨むに際し、当社を参拝し、その戦勝と心身の安全を祈願しています。
そのお礼参りに際して、当社を鶴ヶ岡八幡宮と同じように崇敬し、社殿を造営するようにとの直書を持参していました。その意志により、家光公の御代(寛永11年・1634)に社殿が造営され、同時に御神体の木像(八幡宮座像・仲哀天皇座像・神功皇后座像)と明王像(不動明王立像・愛染明王座像)も奉納されています。しかし、享保8年(1723)の火災により焼失しています。』
という具合に西久保八幡神社とお江さんとの関係についてもしっかりと書かれています。
というわけで、さらに詳しい神社の成り立ち話までいってしまうと話が脱線してしまいますので、ここでは今回も散歩スタイルでお江さんもかつて上り下りしたであろう坂道をぶらりとしてみたいと思います。
まずは神社入口すぐの場所に「西久保八幡男坂」があります。(2枚目の写真です)
このちかくにある愛宕山の坂道にも負けないくらいの高低差のある急勾配な階段坂道で、4年くらい前に撮った写真と見比べてみると、両サイドの石でつくられた立派な手摺(と言っていいのかどうかわかりませんけど)があたらしくつくり替えられていました。
そして階段を上りきるとすぐに社殿が見えます。(3枚目の写真です)
上記でもふれた経緯のある神社の割には規模が小さいかもね、なんて声が聞こえてきそうですけど、この社殿は戦後に建てられたものだそうです。
こちらが女坂のほうです。(4枚目の写真です)
正式には「西久保八幡女坂」というそうです。
今は身障者と車のためにある坂道と言ってもいいかもですね。
正面下にはちょうど男坂の立派な石の手摺もちらりと見えているとおりここの男坂と女坂は坂下でつながっています。
そして坂下の両サイドにはビルも見えているのでこの両坂道の高低差具合もわかりやすいかもですね。(おそらく4階分くらいあるかと思われます。)
また境内の南西側にも抜け道のような階段がありました。
5枚目の写真はその坂下あたりのものです。
手前の近代的なつくりの階段があると思えば奥には古めかしい石段と鳥居がありました。
なんだか不思議な感じですね。
ただ外にでてみると、なんとも近未来的な風景がひろがっていました。(6枚目の写真です)
特に左側の建物はここからみただけでもなんとなくわかるかもしれませんが、つくりが変わっていて霊友会釈迦殿という名前まであるみたいです。(ちなみに3枚目の社殿からの写真にもここの屋根が見えてますよ。)
とにかく変わった外観の建物なので「霊友会釈迦殿」と検索してみるといろいろとでてくると思いますのでよかったらどうぞ。
最後は、また神社の入口にもどり、坂道を再びじっくり眺めている時に発見しました。(7枚目の写真です)
これなんだと思います?
はじめは目を疑いました。
でもどう見ても橋ですよね。
しかも地中に半分以上埋まっていますね。
いちおう名前も確認できました。
「熊谷橋」というみたいです。
というわけで、この橋については門外漢なのでどなたか興味のある方調べてみてください。
ご報告お待ちしております。(笑)
あっ、そうそう。
いい忘れていましたけど、たまたま取材に行った日は節分の日だったので、幸運にも節分祭に参加できましたよ。
なので3枚目の社殿の前にはひとだかりができてますよね。
このあとさらに人があつまって豆まき行事が行われました。
というわけで僕も福豆いただきました。(笑)
ちなみに公式HPによると、
『(略)そのお江(崇源院)ですが、家康公と秀忠公が関ヶ原の戦いに臨むに際し、当社を参拝し、その戦勝と心身の安全を祈願しています。
そのお礼参りに際して、当社を鶴ヶ岡八幡宮と同じように崇敬し、社殿を造営するようにとの直書を持参していました。その意志により、家光公の御代(寛永11年・1634)に社殿が造営され、同時に御神体の木像(八幡宮座像・仲哀天皇座像・神功皇后座像)と明王像(不動明王立像・愛染明王座像)も奉納されています。しかし、享保8年(1723)の火災により焼失しています。』
という具合に西久保八幡神社とお江さんとの関係についてもしっかりと書かれています。
というわけで、さらに詳しい神社の成り立ち話までいってしまうと話が脱線してしまいますので、ここでは今回も散歩スタイルでお江さんもかつて上り下りしたであろう坂道をぶらりとしてみたいと思います。
まずは神社入口すぐの場所に「西久保八幡男坂」があります。(2枚目の写真です)
このちかくにある愛宕山の坂道にも負けないくらいの高低差のある急勾配な階段坂道で、4年くらい前に撮った写真と見比べてみると、両サイドの石でつくられた立派な手摺(と言っていいのかどうかわかりませんけど)があたらしくつくり替えられていました。
そして階段を上りきるとすぐに社殿が見えます。(3枚目の写真です)
上記でもふれた経緯のある神社の割には規模が小さいかもね、なんて声が聞こえてきそうですけど、この社殿は戦後に建てられたものだそうです。
こちらが女坂のほうです。(4枚目の写真です)
正式には「西久保八幡女坂」というそうです。
今は身障者と車のためにある坂道と言ってもいいかもですね。
正面下にはちょうど男坂の立派な石の手摺もちらりと見えているとおりここの男坂と女坂は坂下でつながっています。
そして坂下の両サイドにはビルも見えているのでこの両坂道の高低差具合もわかりやすいかもですね。(おそらく4階分くらいあるかと思われます。)
また境内の南西側にも抜け道のような階段がありました。
5枚目の写真はその坂下あたりのものです。
手前の近代的なつくりの階段があると思えば奥には古めかしい石段と鳥居がありました。
なんだか不思議な感じですね。
ただ外にでてみると、なんとも近未来的な風景がひろがっていました。(6枚目の写真です)
特に左側の建物はここからみただけでもなんとなくわかるかもしれませんが、つくりが変わっていて霊友会釈迦殿という名前まであるみたいです。(ちなみに3枚目の社殿からの写真にもここの屋根が見えてますよ。)
とにかく変わった外観の建物なので「霊友会釈迦殿」と検索してみるといろいろとでてくると思いますのでよかったらどうぞ。
最後は、また神社の入口にもどり、坂道を再びじっくり眺めている時に発見しました。(7枚目の写真です)
これなんだと思います?
はじめは目を疑いました。
でもどう見ても橋ですよね。
しかも地中に半分以上埋まっていますね。
いちおう名前も確認できました。
「熊谷橋」というみたいです。
というわけで、この橋については門外漢なのでどなたか興味のある方調べてみてください。
ご報告お待ちしております。(笑)
あっ、そうそう。
いい忘れていましたけど、たまたま取材に行った日は節分の日だったので、幸運にも節分祭に参加できましたよ。
なので3枚目の社殿の前にはひとだかりができてますよね。
このあとさらに人があつまって豆まき行事が行われました。
というわけで僕も福豆いただきました。(笑)