しばらく暗渠の紹介が続いたが、久しぶりに川(水路)を取り上げてみよう。今回の舞台は東京から北東に100kmほど離れた、群馬県高崎市。所用が早く終わっってしまいぽっかりと空いた時間を使って「長野堰」に「みちくさ」してみた。
「堰」といってもせき止める堰(せき)ではない。上信エリアでは堰は用水路を指す言葉のようで、他にも○○堰、といった名前を持つ用水路がいくつも流れている。そのなかのひとつである「長野堰」は利根川の支流「烏川」から分水されている灌漑用水で、一説には1000年近く前にその原型が開削されたという古い歴史を持ち、農林水産省の疎水百選にも選ばれている由緒ある用水路だ。流域は弥生時代から水田開発が始まったといい、古くから稲作が営まれていたようだ。この長野堰が「烏川」から分水して高崎市内を流れること約8km、JR高崎駅から東に800mほどの地点に、円筒分水がある。今回訪れたのは、この円筒分水を中心にした前後の数百mの区間だ。
円筒分水とは円形分水とも呼ばれ、農業用水を公平に分配するために考案された利水施設だ。サイフォンの原理によって円筒から水をあふれさせ、円筒の周囲の円を分配したい比率に応じて仕切り、それぞれに対応して分水を接続することで、正確に意図した比率で配分できるようになっている。かつて、農業用水の配分は切実であり、文字通り死活問題だった。時には水を巡って激しい争いもおきた。水の配分比がビジュアルで一目瞭然に判るという円筒分水は、透明な公平性を担保した施設であり、争いを避けるのにも役立ったのだろう。
円筒分水は大正期より日本各地で考案・導入されたが、現在主流であるサイフォン式は、川崎市高津区にある、二か領用水に設けられた久地円筒分水(1941年築)が最初だという。現在では見た目も美しいことから、愛好者も多く、今年の1月には久地円筒分水の地元高津区で全国円筒分水サミットが開かれた。
長野堰の円筒分水はそのサミットでも取り上げられた有名な円筒分水だ。2005年のNHK連続テレビ小説「ファイト」でも登場しているという。つくられたのは1962年と、意外と新しい。ここまで流れて来た長野堰は、円筒分水によって「倉賀野堰」「矢中堰」「上中居堰」「地獄堰」の4つの用水路に分水されている。
背後に見える水門の奥までが長野堰で、そこから水門右側のスクリーン防塵でゴミを除去したのち、サイフォンに導水している。
円筒から溢れ出す水流が美しい。手前のコンクリート仕切りより右側が地獄堰への水。仕切りの左側が上中居堰、奥左側が矢中堰への流れだ。上中居堰と矢中堰の間も本来は仕切り板が設けられているが、農閑期のためか、訪れた日は外されていた(円筒の縁に差し込み口が見える)。さらに奥に見えるのは倉賀野堰だが、こちらもこの日は水を入れていなかった。
円筒分水から東へと流れ出していている地獄堰(左)と上中居堰(右)。地獄堰とはまた強烈な名前だ。
長野堰を円筒分水から百数十m遡った地点には「恐しや地獄の関と思いしが 悟ればここぞ極楽の堰」 と、地獄堰にかけた狂歌(?)を刻んだ石碑が建っている。これを円筒分水設置にまつわる碑とするサイトも多いが、裏面を見ると昭和9(1934)年から25(1950)年にかけての水路整備についての碑のようだ。また、碑の上には「極楽用水改良記念碑」とある。碑のすぐそばの長野堰には高根堰水門(写真下右)が設けられ、そこから小さな分水が分かれて記念碑の背後を流れている。極楽用水はいったいどの水路を指しているのだろうか。
一方、倉賀野堰、矢中堰、そしては上中居堰の分流は並行して南東へと流れている。更に途中からは別の水路も並行しており、4車線水路ともいえるような壮観な光景が見られる。写真は上流方向を望んだもので、奥側が円筒分水となる。水路は右から上中居堰の分流、矢中堰、倉賀野堰、別の水路。この日水が流れていたのは矢中堰だけだが、春になれば4つの水路が水で満たされるのだろう。
4車線水路を辿っていくと、途中から加わった水路は橋の下で立体交差で倉賀野堰を越えていた。
橋の先を見ると、なんと立体交差した水路は倉賀野堰と矢中堰の仕切りの上を通っていた。しかもその護岸は、高速道路あるいはモノレールの線路のように両水路の上にはみ出している。
更にその先、上中居堰の分流は矢中堰に合流し、倉賀野堰と矢中堰は二手に分かれ、その間を流れる水路は暗渠へと突入している。
分岐地点を逆から見たところ。高速道路のジャンクションのようだ。傍らには戦前に建てられた「倉賀野・矢中堰改修記念碑」があるが、このジャンクションも戦前につくられたものなのだろうか。
コンクリート蓋暗渠となった真ん中の水路。右に見えるのは倉賀野堰だ。
極楽用水の石碑から円筒分水を経てジャンクション水路まで、300m足らずの距離だが、見所満載の長野堰。高崎駅からは歩いて15分とかからず、1時間もあれば立ち寄れるなかなかのみちくさスポットだった。
円筒分水とは円形分水とも呼ばれ、農業用水を公平に分配するために考案された利水施設だ。サイフォンの原理によって円筒から水をあふれさせ、円筒の周囲の円を分配したい比率に応じて仕切り、それぞれに対応して分水を接続することで、正確に意図した比率で配分できるようになっている。かつて、農業用水の配分は切実であり、文字通り死活問題だった。時には水を巡って激しい争いもおきた。水の配分比がビジュアルで一目瞭然に判るという円筒分水は、透明な公平性を担保した施設であり、争いを避けるのにも役立ったのだろう。
円筒分水は大正期より日本各地で考案・導入されたが、現在主流であるサイフォン式は、川崎市高津区にある、二か領用水に設けられた久地円筒分水(1941年築)が最初だという。現在では見た目も美しいことから、愛好者も多く、今年の1月には久地円筒分水の地元高津区で全国円筒分水サミットが開かれた。
長野堰の円筒分水はそのサミットでも取り上げられた有名な円筒分水だ。2005年のNHK連続テレビ小説「ファイト」でも登場しているという。つくられたのは1962年と、意外と新しい。ここまで流れて来た長野堰は、円筒分水によって「倉賀野堰」「矢中堰」「上中居堰」「地獄堰」の4つの用水路に分水されている。
背後に見える水門の奥までが長野堰で、そこから水門右側のスクリーン防塵でゴミを除去したのち、サイフォンに導水している。
円筒から溢れ出す水流が美しい。手前のコンクリート仕切りより右側が地獄堰への水。仕切りの左側が上中居堰、奥左側が矢中堰への流れだ。上中居堰と矢中堰の間も本来は仕切り板が設けられているが、農閑期のためか、訪れた日は外されていた(円筒の縁に差し込み口が見える)。さらに奥に見えるのは倉賀野堰だが、こちらもこの日は水を入れていなかった。
円筒分水から東へと流れ出していている地獄堰(左)と上中居堰(右)。地獄堰とはまた強烈な名前だ。
長野堰を円筒分水から百数十m遡った地点には「恐しや地獄の関と思いしが 悟ればここぞ極楽の堰」 と、地獄堰にかけた狂歌(?)を刻んだ石碑が建っている。これを円筒分水設置にまつわる碑とするサイトも多いが、裏面を見ると昭和9(1934)年から25(1950)年にかけての水路整備についての碑のようだ。また、碑の上には「極楽用水改良記念碑」とある。碑のすぐそばの長野堰には高根堰水門(写真下右)が設けられ、そこから小さな分水が分かれて記念碑の背後を流れている。極楽用水はいったいどの水路を指しているのだろうか。
一方、倉賀野堰、矢中堰、そしては上中居堰の分流は並行して南東へと流れている。更に途中からは別の水路も並行しており、4車線水路ともいえるような壮観な光景が見られる。写真は上流方向を望んだもので、奥側が円筒分水となる。水路は右から上中居堰の分流、矢中堰、倉賀野堰、別の水路。この日水が流れていたのは矢中堰だけだが、春になれば4つの水路が水で満たされるのだろう。
4車線水路を辿っていくと、途中から加わった水路は橋の下で立体交差で倉賀野堰を越えていた。
橋の先を見ると、なんと立体交差した水路は倉賀野堰と矢中堰の仕切りの上を通っていた。しかもその護岸は、高速道路あるいはモノレールの線路のように両水路の上にはみ出している。
更にその先、上中居堰の分流は矢中堰に合流し、倉賀野堰と矢中堰は二手に分かれ、その間を流れる水路は暗渠へと突入している。
分岐地点を逆から見たところ。高速道路のジャンクションのようだ。傍らには戦前に建てられた「倉賀野・矢中堰改修記念碑」があるが、このジャンクションも戦前につくられたものなのだろうか。
コンクリート蓋暗渠となった真ん中の水路。右に見えるのは倉賀野堰だ。
極楽用水の石碑から円筒分水を経てジャンクション水路まで、300m足らずの距離だが、見所満載の長野堰。高崎駅からは歩いて15分とかからず、1時間もあれば立ち寄れるなかなかのみちくさスポットだった。
- 本田創 (ほんだ・そう)
- 東京の水2009Fragments
- 1972年、東京都生まれ。小学生の頃祖父に貰った1950年代の東京区分地図で川探索に目覚め、実家の近所を流れていた谷田川跡の道から暗渠の道にハマる。
1997年より開始したウェブサイト「東京の水」は現在"東京の水2009Fragments"として展開中。
2010年、「東京ぶらり暗渠(あんきょ)探検 消えた川をたどる! (洋泉社MOOK)」に執筆。
日本最南端の島の地理や民俗を紹介するサイト「波照間島あれこれ」も主宰。