
今回は、前回に引き続き、東京オリンピック開催を契機に消滅した性風俗(千駄ヶ谷の連れ込み旅館)を散歩します。
現在の千駄ヶ谷は、国立能楽堂、将棋会館、津田塾大学、などの文教施設が点在する町ですが、かつては、連れ込み旅館街でした。
昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争によって、米兵の往来は激しくなり、増加した米兵相手の売春業が繁盛し、それに伴い、千駄ヶ谷に連れ込み旅館が急増しました。はじめは利用者のほとんどが米兵だったので、各室バス・トイレ付が常識で、冷暖房、テレビ、冷蔵庫、チリ紙、スキン、強精剤の自動販売機など、当時として最新の設備を備えていました。
1962年の梶山季之の小説「朝は死んでいた」は、当時の千駄ヶ谷の連れ込み旅館の様子を、「午前中にやってくるのは人妻と大学生、歌手とか映画俳優のカップル、昼下がりの情事を楽しむのは、重役と女秘書、若い高校生たち、夕刻から午後11時頃までは、商店主と女事務員、人妻と学校教師、そのあとが、泊り客で、水商売の女と客の男性とのカップルである...」と描写しています。
この描写からも解るように、連れ込み旅館という名称は、商売女が客を「連れ込み」、上京したての若い女性を「連れ込み」悪さをするという乱れた風紀を連想させるものでした。
急増した千駄ヶ谷の連れ込み旅館も、やがて凋落(ちょうらく)の運命をたどることになります。その原因が、1964年に開催が決まった東京オリンピックです。東京オリンピックは、日本にとっては、戦後から脱却するワンステップという大きな意味を持っていたため、渋谷区は、「風紀が乱れていてはまずい」、「ニッポンの恥部」という理由で、オリンピック会場に近い千駄ヶ谷の連れ込み旅館を撤廃に追い込みました。

千駄ヶ谷に代わって昭和40年代から台頭してきた地区は、湯島と錦糸町でした。錦糸堀公園から見える繁華街の入口に旅館「花」の看板があります。

周囲はスナック街ですが、数年前まで連れ込み風の旅館として営業していました。現在は別のビルに建て替わっていますが、看板だけが残り、当時の雰囲気を伝えています。

昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争によって、米兵の往来は激しくなり、増加した米兵相手の売春業が繁盛し、それに伴い、千駄ヶ谷に連れ込み旅館が急増しました。はじめは利用者のほとんどが米兵だったので、各室バス・トイレ付が常識で、冷暖房、テレビ、冷蔵庫、チリ紙、スキン、強精剤の自動販売機など、当時として最新の設備を備えていました。
1962年の梶山季之の小説「朝は死んでいた」は、当時の千駄ヶ谷の連れ込み旅館の様子を、「午前中にやってくるのは人妻と大学生、歌手とか映画俳優のカップル、昼下がりの情事を楽しむのは、重役と女秘書、若い高校生たち、夕刻から午後11時頃までは、商店主と女事務員、人妻と学校教師、そのあとが、泊り客で、水商売の女と客の男性とのカップルである...」と描写しています。
この描写からも解るように、連れ込み旅館という名称は、商売女が客を「連れ込み」、上京したての若い女性を「連れ込み」悪さをするという乱れた風紀を連想させるものでした。
急増した千駄ヶ谷の連れ込み旅館も、やがて凋落(ちょうらく)の運命をたどることになります。その原因が、1964年に開催が決まった東京オリンピックです。東京オリンピックは、日本にとっては、戦後から脱却するワンステップという大きな意味を持っていたため、渋谷区は、「風紀が乱れていてはまずい」、「ニッポンの恥部」という理由で、オリンピック会場に近い千駄ヶ谷の連れ込み旅館を撤廃に追い込みました。

千駄ヶ谷に代わって昭和40年代から台頭してきた地区は、湯島と錦糸町でした。錦糸堀公園から見える繁華街の入口に旅館「花」の看板があります。

周囲はスナック街ですが、数年前まで連れ込み風の旅館として営業していました。現在は別のビルに建て替わっていますが、看板だけが残り、当時の雰囲気を伝えています。
