大森駅東口は、京浜急行バスが各方面へ頻繁に発車していく大バスターミナルですが、その中で特に私の興味を惹く路線が、「森ヶ崎」行きです。大田区大森南地区の旧地名を堂々と行き先に掲げるバスに乗って、今回は終点の「森ヶ崎」を訪ねてみます。
大田区の大動脈、産業道路を南下したバスは、北糀谷交差点から大森南地区を東へ横切ると、東京湾の運河に突き当たる少し手前で、森ヶ崎終点に到着します。ちょうど、東京労災病院の目の前にバス停があり、大森、蒲田の両駅から頻繁にバスが到着します。京急バスの路線図を見ると、この付近には産業道路から入ってくる盲腸タイプの終点が3か所あり、北から順に大森東5丁目、森ヶ崎、東糀谷6丁目と並んでいます。こうした終点では、バスがどのようにして折り返すか、というところにも興味を惹かれますが、森ヶ崎では、バス停の少し先に折り返し場が設けられていることが確認できます。
都心ではあまり見ることのできなくなった、ダルマ型のバス停をカメラに収めてから、周辺を歩いてみます。折り返し場のすぐ先でバス通りは運河に突き当たりますが、運河沿いには遊歩道があり、対岸の昭和島を見ながら北へ歩くと、正面には昭和島へ渡る人道橋、大森東避難橋(昭和島が広域避難場所なので、この名称?)が見えてきます。
埋め立ての進んだ現在では分かりにくいですが、バス停のある大森南4、5丁目付近は、かつては東京湾に突き出した半島状の地形で、「大森の崎」と呼ばれていたものが短縮されて「森ヶ崎」の地名が生じたといわれます。昭和39年の住居表示施行以前は、森ヶ崎町の町名がありましたが、消滅から半世紀弱を経た現在も、森ヶ崎水再生センターや森ヶ崎公園をはじめ、商店やマンションの名前にも森ヶ崎の名は多く使われ、バス停ともども、森ヶ崎の地名が地元にしっかりと根付いている様子を感じ取ることができます。
バスの来た道を少し戻ると、左手の大森寺境内に「森ヶ崎鉱泉源泉碑」があります。町工場と住宅街という現在の街並みからは想像しづらいですが、明治期の後半から大正、昭和初期にかけて、森ヶ崎は天然の鉱泉が湧いたことに端を発する保養地として知られた場所で、海岸近くには鉱泉を引き込んだ旅館や保養所が建ち並んでいました。海水浴場もでき、遊園地や演芸場もあったといいますから、「スパリゾート」的なレジャーランドが形成されていたと想像して構わないでしょう。森ヶ崎へのバス路線も、当初は湯治客の輸送が目的だったといわれます。
もともと大田区には鉱泉が多いようで、独特の黒い湯は大田区の銭湯ならではの特徴として根強い人気を博しています。残念ながら森ヶ崎の保養地としての賑わいは、戦争を境に衰退し、埋立てにより海岸の地形も変わり、戦後の市街化により往時の面影は一掃されていますが、唯一この「源泉碑」だけが、ひっそりと保養地時代の歴史を伝えています。
大森寺から森ヶ崎本通りに入り、途中を左へ曲がると、森ヶ崎観音堂があります。ここにある水掛け地蔵尊は、昭和13年に森ヶ崎上空で起きた旅客機衝突事故の犠牲者を供養したものとのこと。空港に至近という立地ならではの、痛ましい歴史の一端に期せずして触れることになりましたが、保養地が斜陽化し始める頃の事故でもあり、森ヶ崎を知る上では欠かせない歴史の一端といえるでしょう。
都心ではあまり見ることのできなくなった、ダルマ型のバス停をカメラに収めてから、周辺を歩いてみます。折り返し場のすぐ先でバス通りは運河に突き当たりますが、運河沿いには遊歩道があり、対岸の昭和島を見ながら北へ歩くと、正面には昭和島へ渡る人道橋、大森東避難橋(昭和島が広域避難場所なので、この名称?)が見えてきます。
埋め立ての進んだ現在では分かりにくいですが、バス停のある大森南4、5丁目付近は、かつては東京湾に突き出した半島状の地形で、「大森の崎」と呼ばれていたものが短縮されて「森ヶ崎」の地名が生じたといわれます。昭和39年の住居表示施行以前は、森ヶ崎町の町名がありましたが、消滅から半世紀弱を経た現在も、森ヶ崎水再生センターや森ヶ崎公園をはじめ、商店やマンションの名前にも森ヶ崎の名は多く使われ、バス停ともども、森ヶ崎の地名が地元にしっかりと根付いている様子を感じ取ることができます。
バスの来た道を少し戻ると、左手の大森寺境内に「森ヶ崎鉱泉源泉碑」があります。町工場と住宅街という現在の街並みからは想像しづらいですが、明治期の後半から大正、昭和初期にかけて、森ヶ崎は天然の鉱泉が湧いたことに端を発する保養地として知られた場所で、海岸近くには鉱泉を引き込んだ旅館や保養所が建ち並んでいました。海水浴場もでき、遊園地や演芸場もあったといいますから、「スパリゾート」的なレジャーランドが形成されていたと想像して構わないでしょう。森ヶ崎へのバス路線も、当初は湯治客の輸送が目的だったといわれます。
もともと大田区には鉱泉が多いようで、独特の黒い湯は大田区の銭湯ならではの特徴として根強い人気を博しています。残念ながら森ヶ崎の保養地としての賑わいは、戦争を境に衰退し、埋立てにより海岸の地形も変わり、戦後の市街化により往時の面影は一掃されていますが、唯一この「源泉碑」だけが、ひっそりと保養地時代の歴史を伝えています。
大森寺から森ヶ崎本通りに入り、途中を左へ曲がると、森ヶ崎観音堂があります。ここにある水掛け地蔵尊は、昭和13年に森ヶ崎上空で起きた旅客機衝突事故の犠牲者を供養したものとのこと。空港に至近という立地ならではの、痛ましい歴史の一端に期せずして触れることになりましたが、保養地が斜陽化し始める頃の事故でもあり、森ヶ崎を知る上では欠かせない歴史の一端といえるでしょう。
- 岩垣 顕
- 雑司が谷の杜から 東京再発見への誘い
- 1967年生まれ。坂、川、街道、地名、荷風など、様々な切り口で東京の街歩きを楽しむ散歩人。著書に、「歩いて楽しむ江戸東京旧街道めぐり (江戸・東京文庫)」「荷風片手に 東京・市川散歩」「荷風日和下駄読みあるき」など。