
古地図と照らし合わせると、今の京浜国道(国道1号線)がほぼ海岸線になっており、少なくとも幕末の時点ではそこから東側は、海だったことが判る。つまり、現在、鉄道(JR山手線、京浜東北線・・・)の走っている辺り、そこより東は明治後に埋め立てられた土地ということである。従って、品川界隈の幕末維新期の史跡は、鉄道より内陸部に集中している。それを念頭において品川周辺の史跡を歩いてみよう。
JR品川駅西口を出ると、品川駅創業記念碑が建っている。我が国で最初に鉄道が開通したのは、明治五年(1872)九月、新橋-横浜間と言われているが、実はその四か月前に品川-横浜間が一足先に開通し、仮操業が始められていた。石碑の裏側に刻まれた当時の時刻表によれば、午前と午後の二往復。片道の所要時間は約三十五分だったようである。今では、誰もが鉄道の開通は新橋-横浜が最初だと思い込んでいるが、実は品川の方が先だぞ!と、この碑は訴えているのである。
品川駅西口正面に建つホテル・パシフィック東京の敷地は、薩摩藩下屋敷跡である。大名家の江戸屋敷は、上屋敷、中屋敷、下屋敷と呼ばれた。上屋敷は大名とその家族が住むためのもので、江戸城登城に備えるため、江戸城に近い場所に置かれた。中屋敷は、藩主跡継ぎや隠居した大名の住居、下屋敷は、上屋敷、中屋敷が火事に襲われたときの仮住まいという位置づけである。
因みに薩摩藩の上屋敷は、現在の田町駅近く、三田のNEC本社辺りに在った。慶応三年(1867)十二月の焼き討ち事件の舞台となっている。同じく田町駅の近くには、西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城を決める会談を開いた薩摩藩蔵屋敷跡もある。三菱自動車本社前に石碑があるので分かり易い。
薩摩藩中屋敷は、日比谷公園の向かい側、大和生命ビル辺りである。明治になってこの場所に有名な鹿鳴館が開かれた。一世を風靡した鹿鳴館の存在を伝えるものは、ビルの前の壁面に埋め込まれたプレートだけである。
京浜国道を少し北上すると、左手に東禅寺がある。嘉永七年(1854)結ばれた日米和親条約を皮切りに、日本はイギリス、ロシア、オランダとも条約を結ぶことになった。条約締結から1年半ののち、アメリカは下田に領事の駐留を始めるが、江戸との通信を考えると下田はいかにも不便であった。やがて城下への移住を主張し始め、圧力に屈した幕府は品川近辺の寺院を宿館として提供することになった。当時は水戸、長州藩を中心に全国に攘夷熱の高まっている時節であり、外国人がこの地に乗り込んで来るのはかなり胆力を要することだった。彼らは攘夷志士の格好の標的となった。安政五年(1858)日英通商条約が結ばれると、翌年からイギリス公使は東禅寺を宿館として使用し始めたが、文久元年(1861)さらにその翌年と水戸藩士らに襲撃された。現在でも玄関の柱には当時の弾痕や刀傷が残っている。
品川は東海道五十三次の最初の宿場町である。駅の周りに高層ビルが立ち並び、一見すると歴史とは無縁に思われる風景であるが、北品川本通り商店街は都会にあって旧街道の風情が残る貴重な遺産である。紙面が尽きたので、品川宿周辺史跡の紹介は別の機会に譲りたい。
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品川駅前 品川駅創業記念碑 |
JR品川駅西口を出ると、品川駅創業記念碑が建っている。我が国で最初に鉄道が開通したのは、明治五年(1872)九月、新橋-横浜間と言われているが、実はその四か月前に品川-横浜間が一足先に開通し、仮操業が始められていた。石碑の裏側に刻まれた当時の時刻表によれば、午前と午後の二往復。片道の所要時間は約三十五分だったようである。今では、誰もが鉄道の開通は新橋-横浜が最初だと思い込んでいるが、実は品川の方が先だぞ!と、この碑は訴えているのである。
品川駅西口正面に建つホテル・パシフィック東京の敷地は、薩摩藩下屋敷跡である。大名家の江戸屋敷は、上屋敷、中屋敷、下屋敷と呼ばれた。上屋敷は大名とその家族が住むためのもので、江戸城登城に備えるため、江戸城に近い場所に置かれた。中屋敷は、藩主跡継ぎや隠居した大名の住居、下屋敷は、上屋敷、中屋敷が火事に襲われたときの仮住まいという位置づけである。
因みに薩摩藩の上屋敷は、現在の田町駅近く、三田のNEC本社辺りに在った。慶応三年(1867)十二月の焼き討ち事件の舞台となっている。同じく田町駅の近くには、西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城を決める会談を開いた薩摩藩蔵屋敷跡もある。三菱自動車本社前に石碑があるので分かり易い。
薩摩藩中屋敷は、日比谷公園の向かい側、大和生命ビル辺りである。明治になってこの場所に有名な鹿鳴館が開かれた。一世を風靡した鹿鳴館の存在を伝えるものは、ビルの前の壁面に埋め込まれたプレートだけである。
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ホテル・パシフィック東京 薩摩藩下屋敷跡 | 三田NEC本社 薩摩藩上屋敷跡 | 江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地 薩摩藩蔵屋敷跡 | 鹿鳴館跡 薩摩藩中屋敷跡 |
京浜国道を少し北上すると、左手に東禅寺がある。嘉永七年(1854)結ばれた日米和親条約を皮切りに、日本はイギリス、ロシア、オランダとも条約を結ぶことになった。条約締結から1年半ののち、アメリカは下田に領事の駐留を始めるが、江戸との通信を考えると下田はいかにも不便であった。やがて城下への移住を主張し始め、圧力に屈した幕府は品川近辺の寺院を宿館として提供することになった。当時は水戸、長州藩を中心に全国に攘夷熱の高まっている時節であり、外国人がこの地に乗り込んで来るのはかなり胆力を要することだった。彼らは攘夷志士の格好の標的となった。安政五年(1858)日英通商条約が結ばれると、翌年からイギリス公使は東禅寺を宿館として使用し始めたが、文久元年(1861)さらにその翌年と水戸藩士らに襲撃された。現在でも玄関の柱には当時の弾痕や刀傷が残っている。
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東禅寺 |
品川は東海道五十三次の最初の宿場町である。駅の周りに高層ビルが立ち並び、一見すると歴史とは無縁に思われる風景であるが、北品川本通り商店街は都会にあって旧街道の風情が残る貴重な遺産である。紙面が尽きたので、品川宿周辺史跡の紹介は別の機会に譲りたい。