写真1今回は、織物業で発展した埼玉県の花街を散歩します。
関東西部山麓は、江戸時代から織物業の盛んな地域で、明治維新後は国の殖産興業政策により、埼玉県の織物業生産額は全国1位(明治23年)となるまでに発展しました。

所沢の町は織物業とともに発展し、ここで取引される織物は、いつしか「所沢織物」と呼ばれるようになりました。もともと宿場として発達してきた所沢の街道筋の両側には、蔵造りの商家が建ち並んでいましたが、街道筋の北側(現在の所沢市有楽町)は地形的に最も低く、東(あずま)川と呼ばれる小川が流れていました。この東川沿いの一帯は浦町と呼ばれ、言葉通り裏町で、織物商人目当ての遊廓や料理屋が何軒も軒を連ねる花街でした。現在は、街道筋の開発が進み、高層マンションが間近に迫る特異な景観を形成しています。

その中でかつての花街の面影を残す「三好亭」の建物が残っています。建物の矢羽根の戸袋や軒下の灯りなどに往時の名残を見ることができます。現在は、いけ花教室の建物として活用されています。

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秩父は、埼玉県西部に位置する盆地です。秩父の織物業の歴史は古く「根古屋絹」は裏地用として珍重されました。秩父盆地には、荒川がつくった河岸段丘の地形が発達していて、秩父大宮と呼ばれた秩父市街の中心部は、この河岸段丘の上の部分(東側)にありました。一方、河岸段丘の崖を下りた西側の地区は「シタマチ」と通称され、料亭や芸者置屋が軒を並べる花街でした。これらの店は主に織物取引の接待に使用され、東側の町の中心部が織物取引の中心として成長するにつれて、西側の「シタマチ」の花街も成長していきました。

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大正14年の市街図「大日本職業別明細図秩父町及附近」を見ると、待合中本、松島、いろは、初音、亀松、東楼等の屋号が記されていて、この界隈が大規模な花街であったことが確認できます。写真の建物は、この当時の「花月」という店の名残で、現在はヨガ教室として建物が使われています。

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以上のように、所沢と秩父は、いずれも明治期に織物商人の取引の中心として表街道の町並みが発展・生長し、それとともに、「浦町」、「シタマチ」と呼ばれる地形的に一段下がった場所に花街が形成されたことに、歴史的・地理的な共通点が見られます。