空は蒼いというのに、風に乗った粉雪が舞う。
年が明けたばかりの明智町は、まるで冷蔵庫の中にいるような、芯から凍える寒さに包まれていた。
町の駐車場にクルマを置いて、積み込んできた自転車を組み立てる。明智町から山岡町を経由して岩村町までのルートが、ペダルを踏む今日のコースだ。琺瑯看板を探す旅のスタイルもいろいろだが、冬はもっぱら自転車と決めている。何よりも、正月に飲み過ぎてぽっこり出てしまったお腹をへこますにはちょうどいい。

冷たい空気を切るように、旧明智郵便局(逓信資料館)が建つ目抜き通りまで一気に走った。(トップ写真)。

岐阜県恵那市明智町(旧恵那郡明智町)は、「日本大正村」の町として有名である。テーマパークのような施設ではなく、元々は町起こしの一環として構想されたもので、町のあちこちに大正時代の雰囲気を保存、再現した店舗、資料館などが軒を連ねている。
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こうした観光スポットから一歩離れると、そこは人の生活が息づくレトロな町並み。僕が探し求める、何十年もごく自然に町の風景と同化してなじんでいる琺瑯看板がある町だ。

まず目に飛び込んできたのが、「山口の自轉車」。元は自転車屋だったろうか。大きな木造の家屋の軒下に、右から左に欠落もなく組看板が貼られていた。

次に「オリエンタル即席カレー」。同じく木造家屋の二階部分にあった。昭和44年(1969年)に一世を風靡した南利明のCM「ハヤシもあるでよ~」を記憶している方も多いだろう。

株式会社オリエンタルは、昭和20年(1945年)に星野益一郎氏が名古屋で即席カレーの製造を個人創業したのが始まり。タレント南利明の「めっちゃめちや、うめぇでかんわ~」で始まる軽妙な名古屋弁のCM(オリエンタルスナックカレー)がなんとも可笑しかった。

看板が作成された年代は、現在でも売られている「即席カレー」の看板と、昭和37年(1962年)に発売した「マースカレー」の琺瑯看板が同じデザインを踏襲していることから、おそらく昭和30年代後半ではないかと推測する。

「即席カレー」の看板は関東や近畿でも見つけており、同社の歴史によれば、昭和28年から45年まで宣伝カーを使って全国行脚した背景もあって、広範囲に貼られたようだ。
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明智町では町並みが途切れるところまで走って、地酒の「いとう鶴」や「富士循環風呂釜」の看板を確認した。といっても、これまでに何度も訪ねているので、定点観測が目的だ。

2005年には古びた薬局の壁に「オロナイン軟膏」や「ごきぶりホイホイ」もあったが、いつの間にか姿を消してしまった。

少し触れておくが、「清酒いとう鶴」は文政6年(1823年)創業のいとう鶴酒造(恵那市武並町)の銘柄。かつては岐阜県東濃地方で販路を拡大した蔵だったが、平成18年(2006年)に廃業している。看板は今でもJR中央本線の沿線や恵那市内のあちこちで見ることができる。
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さて、午後を回り、田んぼを白く覆う固まった雪を横目に岩村町に向かう。革の手袋を通しても手がかじかんでくるほど寒い。それを払拭するように一生懸命ペダルをこぐが、一向に温まらないうちに岩村町に着いてしまった。

岐阜県恵那市岩村町(旧恵那郡岩村町)は、人口5400人の江戸時代から栄えた城下町だ。中心となる本町通りは、伝統的建造物群保存地区として国から指定を受けている。

1月の厳冬である。普段なら土産物や名物の五平餅を焼く店が並ぶ通りも閑散とし、路傍に積み上げられた雪が残る町並みに道行く人の姿はなかった。そんな風景の中、城跡に向かって緩やかに登る本町通りを、白い息を吐きながらペダルをこいだ。

岩村町は保存地区にありがちな過度な整備…たとえば、道に石畳みのようなタイルを敷き詰めるとか、雰囲気作りにガス灯を等間隔に立てるとか…をしないところが気に入っていたが、どうやらそれも時間の問題で、電柱を地中に埋め込む作業が始まるそうだ。

三重県関宿や島根県の津和野の町並みも同様だが、電柱や電線が消えるだけでもガラリと雰囲気が変わる。まるで映画のセットだ。スッキリし過ぎることで、かえって生活感がなくなってしまうと感じるのは僕だけだろうか。
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そんな町並みをのんびりと走った。徒歩と違って“自転車目線”はスピード感があるだけに見落としも出るが、何度も訪ねた町なので、どこに琺瑯看板が潜んでいるか分かっている。

しかし、健在だった「フレンド編機」以外はいつのまにか看板たちの姿が消えていた。前回訪ねた2年前には、民家の壁に「日の本トラクター」や「小野田白色セメント」があったし、文具屋の軒下には「キング名刺」の看板が揺れていた。

これには少なからずショックだったが、更に輪をかけたのは、レトロなくすり屋にあった「浅井万金膏」の看板が軒下から外され、店のショーウインドウに並んでいたことである。

素朴で静かな雰囲気が琺瑯看板によく似合っていた岩村町だったが、地中に埋められる電柱や飾られた看板のように、そろそろ看板たちの未来にとっても安住の地ではなくなってきたようだ。

自然のままに看板たちが生きていくことは、難しいのだろうか。
全国に散らばる琺瑯看板が似合うレトロな町も、今となっては貴重な存在と言わざるをえないと思う。

寒くて震えた一日だったが、わずかでも静かな町並みで頑張っている看板たちに触れあえたことで、少しは心が癒された輪旅となった。(取材2011.1.23 他多数)

※今回見つけた琺瑯看板たち
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写真左上から…フレンド編機(岩村町)/コカ・コーラ(明智町)/家の光(山岡町)/貯金は農協へ(同)/富士循環風呂釜(明智町)

  • つちのこ
  • 琺瑯看板探険隊が行く
  • 1958年名古屋生まれ。“琺瑯看板がある風景”を求めて彷徨う日々を重ねるうちに、「探検」という言葉が一番マッチすることを確信した。“ひっつきむし”をつけながら雑草を掻き分けて廃屋へ、犬に吼えられながら農家の蔵へ、迫ってくる電車の恐怖におののきながら線路脇へ、まさにこれは「探検」としか言いようがないではないか。