大変な規模の震災がありました。まず、被害に遭われた全ての方にお見舞いを申し上げます。

関東大震災からの復興と看板建築の関係

私は都内で罹災しましたが古いビルの10階におり、激しい揺れに見舞われました。徒歩帰宅の途中、ルート上にある看板建築を眺めながら思い出したのが「関東大震災からの復興と看板建築」というエピソードです。

実は看板建築の誕生は、関東大震災による被害とそこからの復興に、大きな関係がありました。今もなお残るいくつかの看板建築は、震災から復興した日本の生き証人でもあるのです。

これから復興をめざすにあたり、関東大震災の当時を「みちくさ学会」的視点、あるいは歴史から学ぶ視点で振り返ってみるのもいいかと思います。少しおつきあいいただければと思います。


看板建築は関東大震災からの復興で誕生した

看板建築については、一般に関東大震災後の建築様式とされています。(一説には震災前から類似の様式があったとも言われていますが、ここでは通説に従います)

看板建築が建てられた理由について、今までいくつかご紹介してきました。例えば、「銅板で葺いたファサード(前面)は防火対策のつもり」であったとか「道路拡張のあおりで土地が狭くなった分、2階建て、擬似的な3階建てを建てて対応した」というような話をしてきましたが、これは関東大震災復興ならではのエピソードです。


こうした美しい看板建築が震災後ないし終戦直後の建築とは驚くばかりだ。


関東大震災以前、東京の建物は江戸から続く木造建築が主流でした。木造建築は燃えやすいという難点があり、蔵については漆喰で作るなどの防火対策がされてきましたが、あくまで建物の一部に過ぎませんでした。ましてや銀座のような洋風建築の街並みはごくわずかだったのです。

また、道路は江戸から引き継いできた道幅や道のりが引き継がれていました。戦国時代の名残として道路をわざと直角に曲げたり、検問所のように道を細くして交通量を絞るようなところがたくさんありました(大軍勢に攻められないような工夫。今は見附の名前だけが残っています)。江戸時代のことですから車や電車のための余裕は考慮されていません。一部の道路を除いては、道幅もせいぜい馬車に対応できる広さでしかありませんでした。品川の旧東海道などを歩くと、道幅の狭さに驚かされます。

ただ元に戻す復旧ではなく「復興」を目指した

関東大震災(1923年9月1日)においては、30万以上の家屋が倒壊・焼失したといわれ、東京市の実に45%が火災の影響を受けたといわれています。
首都機能にも大きな影響が生じましたが、9月27日には帝都復興院という組織が立ち上げられ、復興院の総裁には後藤新平(当時内務大臣。元東京市長)が着任しました。彼らは、震災からの復旧、つまり元に戻すのではなく、復興、つまり今まで以上に盛んにする、という姿勢で大震災からの建て直しを図りました。

そのとき行われたのが「都市計画」の考え方です。近代的な都市に必要な道路を新しく引いたり、道路の幅を拡張することが行われました。昭和通りや靖国通り、明治通りなど、今ある太い道路のほとんどは当時の都市計画政策のたまものです。

道路を新設したり広くするため、旧来の土地の権利をずいぶん整理することになりました。単純に道路に面していた家だけ土地を削るとまともに家が建てられないほど狭くなってしまうからです。
そこは、帝都復興院に属する区画整理技師が地権者と相談の上、調整を図ったのだそうです。区画整理が終わってはじめて、新しい建物が建ち並んでいったのです。

また、当時の建築基準法で耐火被覆の必要性が盛り込まれたことは、モルタルや銅板で建物の表面を覆うスタイルの普及にも影響を与えたと思われます。
(もちろん、「洋風建築」へのあこがれが正面だけ石造り風にするなど擬装した看板建築の動機のひとつです)


看板建築にみられる「洋風」への憧れは、震災復興の大きな力のひとつであったに違いない。


そうして、「震災後」の建物が街にどんどん建ち並び始めました。そう、看板建築もそのひとつなのです。

看板建築に「復興」の息吹を感じて街を歩いてみよう

看板建築は巨大資本による建築ではありません。銀座三越や和光のような建物ではなく、「○×商店」や「△□書店」のような個人商店が中心です。生活する家と、商売する店が同居しているような小さな建物ばかりです。

そうした個人が、完全に洋風の商店を作りたいと願いながらも、和風の建物のファサード(前面)だけを洋風にする看板建築を震災復興時にどんどん建築していきました。
それは、夢と現実のバランスを取ったチャレンジであり、粋の追求と見栄っぱりのせめぎ合いでもありました。そして何よりも、震災後をたくましく生き抜いていった庶民の知恵の結晶なのだと思います。

看板建築は関東一円、あるいは東北にも散見されますが、これも東京に復興建築の仕事で出てきた大工が地方に帰って建てたものだともいわれています。ここにも看板建築と震災との関係がみられます。


今も現役の看板建築に、庶民の力、活気を感じずにはいられない。


私は看板建築を眺めていると、家主の生活感が感じられるところが好きです。住んでいる土地への愛着があり、意匠へのこだわりがあり、自分の仕事へのプライドがあり、そこにひとつの看板建築が建ち、今もなお残っていることに力強さを感じるのです。みちくさの折には看板建築から「復興」の息吹を感じていただければと思います。

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今残る看板建築に、震災復興にたくましく立ち上がった庶民の力が宿っています。いつの時代も、国や大企業の取り組みだけでなく、ひとりひとりの活動こそが社会を元気づけてきたのだと思うのです。

被災地においては、消えていった建物、消えた町並みへ戻ることはないかもしれません。しかし、人々は新しい生活を取り戻していくはずです。そして、新しい街並みは新しい記憶や新しい風景を作り出していくことと思います。

そこには「新しい看板建築」のような様式が自然にできていくかもしれません。いつか、そんな東北を「みちくさ」散歩したいと思います。

今回の復興にも長い時間がかかることと思います。関東大震災の復興式典は1930年に行われていますが、7年弱の月日がかかっています。
長丁場になりますが、みんなそれぞれができることをがんばりましょう!

(撮影場所)品川区北品川、台東区池之端・根岸、千代田区神田須田町、江東区清澄、文京区本郷、千代田区富士見・飯田橋あたり





  • 山崎俊輔(やまさき・しゅんすけ)

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  • 1972年生まれ。本業はファイナンシャルプランナー。資産運用とか年金のことを分かりやすく書いたりしゃべるのが仕事。副業はオタク。ゲーム・マンガ・街歩きを同時並行的に好む。所属学会は日本年金学会と東京スリバチ学会。Twitterアカウントは@yam_syun