中央区の旧町名(木挽町)
なぎら健壱さんが銀座生まれの新宿(にいじゅく・葛飾区)育ちであることは、昨年のなぎら健壱技能検定試験で出題されたことは記憶に新しいですが、厳密にいえば「木挽町」生まれです。これは公式プロフィールに記載されていますので揺るぎない事実ですが、この「木挽町」現在のどの辺りだと思いますか?地下鉄東銀座駅近くの最近取り壊しになった歌舞伎座の、そうあのあたりです。今回は銀座の東側界隈の町名の変遷を追ってみました。
(1)木挽町
読み方は「こびきちょう」、何とかこじつければ歌舞伎座にちなんで「かぶきちょう」と読めなくもなさそうな、なにやら只者ではないオリジナリティあふれる名前です。町名の由来は江戸城修築の際にこの辺りに木挽職人が多く住んでいたことからで、江戸時代から続いた、由緒ある町名でした。江戸時代が終わり、その後明治~昭和という時代の流れの中で幾度に及ぶ町域再編経て、1931(昭和6)年に1丁目~8丁目体制に落ち着き戦後を迎えます。戦後の時点では「京橋區」でしたが、その2年度の1947(昭和22)年に日本橋區と合併したことによって「中央区木挽町」が誕生し、新行政区の元、気持ち新たにスタートを切りました。
しかし、その時代も長くは続きません。まもなく中央区界隈の川(堀)の埋めたてが始まります。もちろんこの界隈を流れていた三十間堀川も埋めたてられ、その結果対岸にあった「銀座」と陸続きになってしまったことから1952(昭和26)年に木挽町は消滅しその歴史を終えたのです。
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写真では京橋區と表示されていることからこの表札は戦前のではないでしょうか。他の旧町名が概ね東京オリンピックの前後に消滅していますので、それよりも前の戦後間もなくに消滅した今回の木挽町はとても異質であると言えるでしょう。故に、この写真のものは中央区の歴史的な資料になり得るのではと思える程に大変貴重です。そしておそらく現存する最後の「木挽町」ではないでしょうか。
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木挽町の次の町名である「銀座東(昭和44年消滅)」は其処彼処で見かけるのですが、戦前の建物自体も僅かな中で、戦後わずか6年で消滅したこの木挽町の発見は困難を極めました。初めてこの界隈を訪れたのがこのライフワークの始めたてでしたので、足掛け5年での発見です。苦労した割にはあっけなく見つかりましたが、やはり悲願でしたので感動はひとしおです。未だに余韻に浸っています。人間というのは良く深い生き物で「中央区木挽町」は見つからないかなと、私の中では早くも次の欲望が生まれています。皆さんの情報をお待ちしております。
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以上、今回は銀座の東側における町名の変遷についてご紹介しました。木挽町、とてもレア町名です。この貴重な表札を、皆さんも是非探しに行ってみてください。




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  • 旧町名をさがす会

  • 1983年生まれ、福島県出身。東京都内に残る旧町名を探しまわり、(ほぼ)毎日1町名ずつブログにて紹介しています。ネタ切れまで頑張ります。みなさんからの旧町名発見情報や、ちょっとあの旧町名探してこいや的なご依頼等お待ちしています。名前は新宿区十二社(じゅうにそう)から。