靖国神社 遊就館
靖国神社 遊就館

市ヶ谷周辺にも史跡が集中している。
JR市ヶ谷駅を下車して線路沿いに東に行くと三輪田学園がある。この学校は、三輪田真佐子が創設したものである。三輪田真佐子は、天保十四年(1843)に伊予で生まれ、明治二年(1869)同じ伊予出身の三輪田元綱に嫁いだ。三輪田元綱は、文久三年(1863)に起きた足利三将軍の木像梟首事件の首謀者の一人である。この事件のため五年間、但馬豊岡に幽閉されることになった。維新後は外務権大丞まで累進した。明治十二年(1879)に元綱は世を去るが、真佐子が教育者として活躍するのは未亡人となってからである。郷里松山で教鞭を取ったのを皮切りに、東京音楽大学、日本女子大学などで教壇に立ち、明治三十五年(1902)三輪田女子高等学校を創設した。

三輪田学園の玄関を入って直ぐのところに三輪田真佐子像が置かれている。背後の書は「汝自身を知れ」。
三輪田学園三輪田真佐子像


三輪田学園の向かい側が法政大学である。富士見坂を登りきった場所に、幕末を代表する英国の外交官アーネスト・サトウ所縁の地を示す石碑がある。この場所は、アーネスト・サトウが夫人武田兼のために購入した旗本屋敷の跡である。その後も引き続き、息である植物学者武田久吉博士がここに居住していた。

アーネスト・サトウ所縁の地東郷元帥記念公園靖国神社


靖国通りを横断して南に行くと、住宅街の中に東郷元帥記念公園がある。東郷平八郎は、明治十四年(1881)から昭和九年(1934)八十八歳で亡くなるまでの長きに亘ってこの地に住んでいた。今となっては、少し広い公園というくらいで、その辺にある公園とあまり変わりはないが、公園内には当時からあったと言われるライオン像などが残されている。

練兵館跡大村益次郎像青銅百五十封度陸用加農砲


遠回りしたが、ここで有名な靖国神社に足を踏み入れよう。靖国神社は、明治二年(1869)明治政府が幕末から戊辰戦争にかけての犠牲者を慰霊するために招魂社を九段坂上の火除地三番丁原に設けたのが始まりである。明治十二年(1879)靖国神社と改称された。この地には、斎藤弥九郎の主催する練兵館があった。嘉永五年(1852)斎藤弥九郎の嗣子斎藤新九郎が長州藩萩を訪問したのを機に長州藩から続々と練兵館の門をくぐる者が出た。中でも桂小五郎は練兵館塾頭を務め頭角を現した。靖国神社には、やはり長州藩出身の大村益次郎の立像がある。明治二十六年(1893)の建立で、上野の山にたてこもる彰義隊討伐に際して江戸城から指揮を振るう姿と伝えられる。

靖国神社に来たら、遊就館と称する博物館も見ておきたい。遊就館には、我が国の近代以降の歴史が数々の資料とともに展示されている。大東亜戦争に関する展示が圧倒的に多いが、幕末から維新、西南戦争、日清日露戦争関係の展示も充実している。遊就館の正面に青銅百五十封度陸用加農砲(150ポンド陸用キャノン砲)が二基置かれている。この砲は嘉永二年(1849)、薩摩藩で鋳造され、天保山砲台に据え付けられていたものである。

大山巌像品川弥二郎像蕃所調所跡


軍人亀鑑碑陸軍士官学校一期生慰霊碑表忠碑


靖国神社の南方、靖国通りを挟んで反対側に九段坂公園がある。ここには大山巌と品川弥二郎の銅像がある。品川弥二郎は、松下村塾に学び英国公使館焼き討ちに参加したり、薩長同盟に尽くした。「宮さん、宮さん…」のとんやれ節は品川弥二郎の作と言われる。農商務大臣、内務大臣を歴任したが、総選挙での選挙干渉で批判を受けて辞職。明治二十五年(1882)に熊本の佐々友房らと国民協会を設立し副会長に就任した(会長は西郷従道)。明治三十三年(1900)五十六歳にて死去。

九段坂公園近くの交番の前に「蕃所調所跡」の標柱が立てられている。安政三年(1856)幕府により海外事情の調査研究および教育を目的にこの地に蕃書調所が設けられた。頭取には古賀茶渓、教授に箕作阮甫、杉田成卿ら。教授手伝として薩摩藩の松木弘安(のちの寺島宗則)、長州藩の村田蔵六(のちの大村益次郎)ら当代切っての蘭学者が集められた。蕃書調所は、万延元年(1860)に神田小川町に移って洋書調所に、更に開成所に改称され、明治二年(1869)大学南校となって、東京大学へと引き継がれた。

先の東日本を襲った大地震で天井が崩落した九段会館はここから近い。九段会館の駐車場の植え込みの中に西南戦争関係の石碑が3つも建っている。そのうちの一つが谷村計介を顕彰した軍人亀鑑碑である。有栖川熾仁親王の書、撰文は谷干城。表忠碑は、政府軍戦死者の慰霊のために建てられたもので、有栖川熾仁親王の書、撰文中村正直。