増上寺
今回はJR浜松町駅を基点に周辺を歩いてみよう。
浜松町駅北口を出て、東側すぐのところに芝離宮公園がある。入場料150円を支払って中に入ると、都会には珍しい緑に溢れた空間が広がる。芝離宮庭園は、延宝六年(1678)に将軍家よりこの地を拝領した老中大久保忠朝がこの地に屋敷と庭園を作ったのが始まりで、幕末には紀州徳川家の芝屋敷となり、その後有栖川宮家の手を経て、明治九年(1876)に宮内省所有となった。
幕末には、紀州徳川家芝屋敷の北方に鉄砲調練所が設けられた。現在の汐留ビルディング周辺である。韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)はペリー来航を受けて、この地に砲台を築くことを進言して、その死後、子の英敏はこの地を拝領して大砲、鉄砲の調練を実施した。石碑か何か残っていないか付近を歩き回ったが、それらしいものは発見できなかった。

芝離宮恩賜庭園福沢近藤両翁学塾跡攻玉社学園(目黒)
近藤真琴胸像

さて、JRの高架をくぐって西側に出る。文化放送ビルの脇の道を線路に並行して北に数分歩くと、エコプラザの前に「福沢近藤両翁学塾跡」という石碑がある。明治元年(1868)から明治三年(1871)までの間、福沢諭吉は、この地で学塾を開いていた。それまで築地鉄砲洲にあった学塾を移し、年号を取って慶応義塾と名付けたものである。明治四年(1872)には慶応義塾は三田に移ることになるが、この地を受け継いだ近藤真琴が攻玉社という学塾を経営することになった。現在、攻玉社学園は目黒に移って存続している。

今日のメインデッシュである増上寺に向かう。途中、増上寺の塔頭の一つ、安養院に立ち寄る。安養院は土佐藩の庇護を受けていた関係で、土佐藩出身の長岡謙吉はじめ土佐藩関係者の墓がある。
長岡謙吉墓高知藩留学候補生の墓

長岡謙吉は坂本龍馬の海援隊に属し、龍馬の立案した海援隊約規を成文化したと言われる。のちには大政奉還の建白書や「船中八策」にも関わったというかにら、龍馬から厚く信頼されていたことが伺われる。また海援隊の出版事業である「閑愁録」「藩論」「和英通韻以呂波便覧」などを著したとも言われ、相当の文才の持主だったようである。坂本龍馬が暗殺された後、海援隊長に就任したこともあったが、わずか1ヶ月で三河県知事に転じた。その後、大津監察、民部省、工部省に務めたが、明治五年(1872)六月、胃潰瘍が悪化し吐血。三十九歳にて逝去。

同じく安養院墓地の一角には高知藩留学候補生の墓がある。いずれも戊辰戦争で軍功のあった四人の若者(谷神之助(立志社副社長谷重喜弟)、小笠原彦弥、川上友八、小島捨蔵)である。明治三年(1870)藩費留学が内定していた彼らは新島原遊郭で酒を飲んだ勢いで、当地を警備していた金沢藩士と衝突して数名を殺傷してしまった。四人はこの責を取って藩邸にて切腹し、ここ安養院に葬られた。小笠原彦弥の墓は、地震の被害を受けたのか、中央から真っ二つに分かれている。

徳川家茂の墓皇女和宮の墓和宮像

増上寺が創建されたのは室町時代といわれるが、徳川家が江戸に幕府を開くと、徳川家の菩提寺となった。二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶そして紀州家より徳川家を継いだ家茂と和宮の墓もある。戦前までは広大な霊廟があったが、戦後墓地が売却されてしまい、徳川家霊廟も境内の片隅に追いやられることになった。

徳川家霊廟は普段非公開であるが、毎年一定期間特別公開される。今年の徳川家霊廟の特別公開がとりわけ注目されるのは、大河ドラマの主人公二代将軍秀忠夫人お江の墓があるためである。勿論、私の目的はお江ではなく、十四代将軍家茂と皇女和宮の墓である。増上寺の徳川家霊廟は、第二次大戦時の空襲でほとんどが焼失し、その後も荒廃にまかされていたが、昭和三十三年(1958)より学術的調査が始められた。
和宮の棺からは、烏帽子に直垂姿をした若い男性の写真乾板が見つかった。空気に触れた写真乾板は、翌日にはただのガラス板になってしまった。男性の正体は、夫家茂と言われる。また、土葬されていた和宮の遺体には、左手首から先の骨が無かったという事実も世間を驚かせた。

芝東照宮武田竹塘先生紀功碑ペリー提督胸像遣米使節記念碑

増上寺に隣接する東照宮参道脇に「武田竹塘先生紀功碑」と刻まれた顕彰碑がある。題額は有栖川宮熾仁、撰文は石川桜所。武田竹塘とは大洲藩士、武田斐三郎の号である。武田斐三郎は、緒方洪庵の適塾で学び、のちに江戸に出て佐久間象山に学んだ。象山の推挙により幕府に出仕すると、箱館奉行支配諸術調所教授役となって五稜郭や弁天台場などを設計した。明治十三年(1880)に亡くなったが、この顕彰碑は死後斐三郎の業績を偲んで建立されたものである。

増上寺門前の芝公園には、ペリー提督胸像と遣米使節記念碑が建てられている。遣米使節記念碑は、万延元年(1860)に日米修好通商条約批准書交換のために新見豊前守正興を正使とした一団が米国に渡航して百周年を記念して建立されたものである。

この周辺は、台場築造で使用された石が置かれている区立みなと図書館、陸軍奉行並竹中重固書「海陸軍士戦死者之墓」のある安蓮社、近藤勇の養父近藤周助の墓がある金地院など、見所が多い。余力があれば、更に歩くことをお勧めする。