
都営バスにある私鉄の社名を冠したバス停名として、すぐに思いつくのは「東武浅草駅前」や「東急百貨店本店前」ですが、よく探したらこんなのもありました。それが今回ご紹介する「京成中組」バス停です。
場所は、北千住に近い京成電車の千住大橋駅前で、日光街道(国道4号)上にあります。「千住大橋駅前」とした方がよほど分かりやすいのですが、何故に「中組」なのでしょうか。
似たようなバス停名について、以前「雷」バス停を取りあげた際、「雷上組」「仲町東組」といったバス停をご紹介しましたが、「組」は古くから小集落の単位として使われた呼称と考えていいでしょう。かつて日光街道の宿場街として発展した千住は、万治年間(1658~61)に宿の南側、現在の千住仲町、河原町一帯から千住大橋南側の通称「コツ通り」までが宿場に加えられ、旧来の千住本宿を北組、その南を中組、千住大橋南側を南組として区分けするようになりました。その中組の地に京成電車の駅があることから、京成中組のバス停名が生じたのでしょう。千住宿時代の土地の呼称を後世に伝える意味では、貴重なバス停といえるかもしれません。

バス停から京成電車の高架をくぐると、足立市場前の交差点がありますが、ここで日光街道から分岐して北へ直進する細い通りが、旧日光街道の道筋です。通りに面して、「千住宿奥の細道」と書かれた大きな看板が立ち、旧街道らしさが演出されています。旧道を少し歩いてみると、間もなく「此処は元やっちゃ場南詰」と書かれた大きな看板が目につきますが、ここから300メートル程の旧道沿いは、江戸期に青物市場として賑わった「やっちゃ場」の跡地です。主に青物と穀物、川魚などの問屋が街道両側に軒を連ねたといいます。「やっちゃ」の意味ははっきりしませんが、市場内での掛け声とする説や、やっさもっさと野菜を運ぶ様とする説などがあるようです。江戸期半ば頃にはかなりの問屋組織が整備されていたと思われ、幕府へ野菜を上納する御用市場の役割も果たしていました。かつての各問屋の跡地となる住宅や商店の前には、当時の屋号やその由来などを書き止めた看板が多数立てられ、旧街道歩きを楽しむ人々が随所で足を止めています。

足立市場前の交差点を過ぎると、すぐ正面が隅田川を渡す千住大橋です。その手前右手には、「奥の細道 矢立初めの地」と書かれた碑が立つ公園がありますが、千住は芭蕉が「奥の細道」で日光街道を辿ったスタート地点であり、芭蕉が深川からの船を降りたとされる千住大橋の袂が、その史跡公園として整備されています。「矢立初め」とは、旅の日記の書き始めといった意味で、園内には「行く春や鳥啼魚の目は泪」という矢立の句が刻まれた碑が置かれています。

そして千住大橋ですが、最初の架橋は家康の江戸入りから間もない文禄3年(1594)といわれ、当時から大橋の名があり、隅田川(厳密には荒川下流部)に架けられた最初の橋となります。現在も橋の入口上部に見られる「大橋」のプレートは、他に橋が無く「千住」を付さなくても大橋といえばこの橋を指した架橋当時の事情を物語っています。現在見られるグリーンのタイドアーチ橋は、震災後の昭和2年に架けられたもので、その後の交通量の増加から、昭和48年に下流側に隣接して新しい橋が架けられています。

千住大橋を渡ってみます。橋の北詰側には、近年になって昭和2年架橋当時の親柱が復元され、ほんのりと昭和レトロな雰囲気を感じることができます。タイドアーチの構造美を内側から楽しみながら橋を渡りきると、その先に都営バスの千住大橋バス停があります。橋の北詰側に京成電車の千住大橋駅と京成中組バス停、南詰側に千住大橋バス停。このちぐはぐ感が、なんともいえないバス停独特の魅力でもありますね。

似たようなバス停名について、以前「雷」バス停を取りあげた際、「雷上組」「仲町東組」といったバス停をご紹介しましたが、「組」は古くから小集落の単位として使われた呼称と考えていいでしょう。かつて日光街道の宿場街として発展した千住は、万治年間(1658~61)に宿の南側、現在の千住仲町、河原町一帯から千住大橋南側の通称「コツ通り」までが宿場に加えられ、旧来の千住本宿を北組、その南を中組、千住大橋南側を南組として区分けするようになりました。その中組の地に京成電車の駅があることから、京成中組のバス停名が生じたのでしょう。千住宿時代の土地の呼称を後世に伝える意味では、貴重なバス停といえるかもしれません。

バス停から京成電車の高架をくぐると、足立市場前の交差点がありますが、ここで日光街道から分岐して北へ直進する細い通りが、旧日光街道の道筋です。通りに面して、「千住宿奥の細道」と書かれた大きな看板が立ち、旧街道らしさが演出されています。旧道を少し歩いてみると、間もなく「此処は元やっちゃ場南詰」と書かれた大きな看板が目につきますが、ここから300メートル程の旧道沿いは、江戸期に青物市場として賑わった「やっちゃ場」の跡地です。主に青物と穀物、川魚などの問屋が街道両側に軒を連ねたといいます。「やっちゃ」の意味ははっきりしませんが、市場内での掛け声とする説や、やっさもっさと野菜を運ぶ様とする説などがあるようです。江戸期半ば頃にはかなりの問屋組織が整備されていたと思われ、幕府へ野菜を上納する御用市場の役割も果たしていました。かつての各問屋の跡地となる住宅や商店の前には、当時の屋号やその由来などを書き止めた看板が多数立てられ、旧街道歩きを楽しむ人々が随所で足を止めています。

足立市場前の交差点を過ぎると、すぐ正面が隅田川を渡す千住大橋です。その手前右手には、「奥の細道 矢立初めの地」と書かれた碑が立つ公園がありますが、千住は芭蕉が「奥の細道」で日光街道を辿ったスタート地点であり、芭蕉が深川からの船を降りたとされる千住大橋の袂が、その史跡公園として整備されています。「矢立初め」とは、旅の日記の書き始めといった意味で、園内には「行く春や鳥啼魚の目は泪」という矢立の句が刻まれた碑が置かれています。

そして千住大橋ですが、最初の架橋は家康の江戸入りから間もない文禄3年(1594)といわれ、当時から大橋の名があり、隅田川(厳密には荒川下流部)に架けられた最初の橋となります。現在も橋の入口上部に見られる「大橋」のプレートは、他に橋が無く「千住」を付さなくても大橋といえばこの橋を指した架橋当時の事情を物語っています。現在見られるグリーンのタイドアーチ橋は、震災後の昭和2年に架けられたもので、その後の交通量の増加から、昭和48年に下流側に隣接して新しい橋が架けられています。

千住大橋を渡ってみます。橋の北詰側には、近年になって昭和2年架橋当時の親柱が復元され、ほんのりと昭和レトロな雰囲気を感じることができます。タイドアーチの構造美を内側から楽しみながら橋を渡りきると、その先に都営バスの千住大橋バス停があります。橋の北詰側に京成電車の千住大橋駅と京成中組バス停、南詰側に千住大橋バス停。このちぐはぐ感が、なんともいえないバス停独特の魅力でもありますね。

- 岩垣 顕
- 雑司が谷の杜から 東京再発見への誘い
- 1967年生まれ。坂、川、街道、地名、荷風など、様々な切り口で東京の街歩きを楽しむ散歩人。著書に、「歩いて楽しむ江戸東京旧街道めぐり (江戸・東京文庫)」「荷風片手に 東京・市川散歩」「荷風日和下駄読みあるき」など。

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