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前回暗渠へのいざないと書いておきながら、いきなり暗渠とやや外れる話題で恐縮だが、今回は都内の住宅地を流れる、とある用水路を取り上げてみよう。
東京都内西部では最大の駅であるJR中央線の立川駅から、中央線に沿って南西に1キロほど向かった線路沿い。切り通しとなっている線路の西側に沿って通る道路端に、コンクリート蓋の暗渠が続いている。比較的新しそうな蓋は1枚1枚が縦長で道路にぴったりと嵌っていて、中の水路を伺い知ることは出来ない。
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この暗渠をしばらく南西へと辿っていくと、暗渠なのか舗装なのかよくわからない状態となった先に、線路のほうへ向かう折れ曲がった形の蓋が現れる。
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曲がった先、中央線の切り通しを覗きこんでみると、線路の上を跨いでグレーの鉄製の橋が架かっており、その上を水がさらさらと流れている。ふつうは線路が水路を橋で渡るものだが、ここでは水路が線路を橋で渡っている。送水管ならよくあるだろうが、水面の露出している水路専用橋というのはそう多くはないだろう。
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線路を渡った先から、水路を覗き込んでみる。透明な水がかなりの勢いで流れている。幅も細く深さもあまりないが、増水のときなど、溢れることはないのだろうか。
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線路を越えた後はカクカクッと北向きに曲がり、蓋のない区間となる。線路沿いを対岸とは逆に北上したのち、住宅地の中へと再び暗渠となって消えて行く。
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今回紹介したこの水路は「柴崎分水」。川ではなく、用水路だ。東京の山の手~武蔵野~多摩地区では、江戸時代に江戸の上水道として玉川上水が開削されて以降、そこからいくつもの分水が引かれたが、「柴崎分水」もそのひとつだ。立川市柴崎地区の飲用・生活用水、農業用水として1737年に玉川上水より分水され開削された柴崎分水は、水路沿いの大部分の開発が進み、かなりの区間が暗渠化された今でも、水が流れ続ける現役の用水路だ。

川と違って用水路の場合は、必ずしも谷筋を流れているとは限らない。玉川上水は、分水地点から遥か遠くの都心部へと水を届けるために台地上の尾根筋に通されており、その分水も、なるべく遠くへ、なるべく広いエリアへと水を届けるため、周囲に較べて高いところを選んで通されている場合が多い。柴崎分水も「立川段丘」と呼ばれる水の乏しい台地上のへり近くを縦横に流れて一帯を潤し、最後の最後に段丘を一気に下って多摩川の支流に注いでいる。

一方で分水が出来てから152年後の1889年に開通した中央線は、立川駅から日野駅に向かう台地を緩やかに下るために、台地の斜面を切り通して線路をひいた。そんな訳で、水路の下を線路が潜ることになった。こうして中央線に分断されることもなく、しかも、送水管などに架け替えられることもなく300年近く水が流れ続けて来たことを考えると感慨深い。

用水路などの人工的な水路は、役割を終え水の供給が途絶えてしまうと干上がってしまうため、そのまま埋め立てられてしまったりすること多い。そうした場合、谷筋で辿れる川跡と違って、その痕跡がほとんど残らず、現地の手がかりだけではなかなか辿りにくい。
一方で、水の利用に便利なように想像できないようなルートで流路がつくられている場合もあり、川と違ってどこを通っているか、どこに辿り着くかわからない楽しさがある。まちを歩いていて、柴崎分水のように現役だったり、水は流れていなくとも水路自体は残っているような用水路に遭遇したら、辿ってみるのも一興だろう。