
前回の「角筈二丁目」バス停から、新宿駅を挟んでちょうど反対側、伊勢丹南面の新宿通り上に立つのが、今回ご紹介する「新宿追分」バス停です。
めまぐるしい雑踏の中心地ともいえる伊勢丹と丸井の狭間に、江戸時代の追分地名を残すバス停が立つ姿は、大変貴重な光景といえるでしょう。「追分」が街道の分岐点にみられる地名であることは、周知のことと思いますが、ここ新宿の追分は、甲州街道と青梅街道の分岐点であり、現在の新宿3丁目交差点がその跡地ということになります。

そもそも新宿の地には、家康の関東移封が決まる天正18年(1590)、小田原北条氏の攻撃に参加していた内藤氏が、国府道(後の甲州街道)と鎌倉街道の交差地点(現在の
新宿2丁目付近)に布陣し、家康入府後の慶長8年(1603)にそのままこの地を拝領すると、現在の新宿御苑の地に広大な屋敷地を構えました。翌年、五街道のひとつとして甲州街道が整備されると、その第一宿は高井戸に設けられましたが、後に江戸城築城資材の石灰を運搬する目的で成木街道(後の青梅街道)が開かれ、その分岐点(追分)に人馬の休憩所としての「内藤宿」が形成されるようになりました。これが新宿の原形であり、元禄11年(1698)には正式な宿場として「内藤新宿」が設置されると、一時閉鎖の期間はあったものの、品川、板橋、千住と並ぶ江戸四宿のひとつとして急速に繁栄しました。
内藤新宿が設置された当時、甲州街道と成木街道は宿場の中心部に近い現在の新宿2丁目付近でY字型に分岐していたようですが、宿場内で二本の街道が並行することは宿場町形成の障害になるとの理由で、分岐点すなわち追分は、宿場の西端にあたる現在の新宿3丁目交差点付近に移されたといわれます。本来東西に直進すべき甲州街道が、新宿3丁目交差点で直角に南へ折れる理由は、この追分の移動が原因と考えられます。
新宿3丁目交差点の東南角には、「新宿元標 ここが追分」と記された円形の絵地図が埋め込まれています。現在の新宿通りを中心に東西に続いていた内藤新宿、その西端に追分、それを直進すれば青梅街道、南へ折れると甲州街道という位置関係が、ひと目でわかります。甲州街道の南側に並行した玉川上水も、水色で描き込まれています。

この絵地図を見ていると、新宿駅がかつての宿場の中心から大きく西へ離れていることに気付きます。新宿駅の開業した明治18年以降、新宿の中心は次第に西へ移り、その流れは戦後の西口の発展へとつながっていきます。


そもそも新宿の地には、家康の関東移封が決まる天正18年(1590)、小田原北条氏の攻撃に参加していた内藤氏が、国府道(後の甲州街道)と鎌倉街道の交差地点(現在の
新宿2丁目付近)に布陣し、家康入府後の慶長8年(1603)にそのままこの地を拝領すると、現在の新宿御苑の地に広大な屋敷地を構えました。翌年、五街道のひとつとして甲州街道が整備されると、その第一宿は高井戸に設けられましたが、後に江戸城築城資材の石灰を運搬する目的で成木街道(後の青梅街道)が開かれ、その分岐点(追分)に人馬の休憩所としての「内藤宿」が形成されるようになりました。これが新宿の原形であり、元禄11年(1698)には正式な宿場として「内藤新宿」が設置されると、一時閉鎖の期間はあったものの、品川、板橋、千住と並ぶ江戸四宿のひとつとして急速に繁栄しました。
内藤新宿が設置された当時、甲州街道と成木街道は宿場の中心部に近い現在の新宿2丁目付近でY字型に分岐していたようですが、宿場内で二本の街道が並行することは宿場町形成の障害になるとの理由で、分岐点すなわち追分は、宿場の西端にあたる現在の新宿3丁目交差点付近に移されたといわれます。本来東西に直進すべき甲州街道が、新宿3丁目交差点で直角に南へ折れる理由は、この追分の移動が原因と考えられます。
新宿3丁目交差点の東南角には、「新宿元標 ここが追分」と記された円形の絵地図が埋め込まれています。現在の新宿通りを中心に東西に続いていた内藤新宿、その西端に追分、それを直進すれば青梅街道、南へ折れると甲州街道という位置関係が、ひと目でわかります。甲州街道の南側に並行した玉川上水も、水色で描き込まれています。

この絵地図を見ていると、新宿駅がかつての宿場の中心から大きく西へ離れていることに気付きます。新宿駅の開業した明治18年以降、新宿の中心は次第に西へ移り、その流れは戦後の西口の発展へとつながっていきます。

- 岩垣 顕
- 雑司が谷の杜から 東京再発見への誘い
- 1967年生まれ。坂、川、街道、地名、荷風など、様々な切り口で東京の街歩きを楽しむ散歩人。著書に、「歩いて楽しむ江戸東京旧街道めぐり (江戸・東京文庫)」「荷風片手に 東京・市川散歩」「荷風日和下駄読みあるき」など。