山手線原宿駅に隣接する明治神宮。その広大な敷地内の一角「明治神宮御苑」にある湧水「清正の井」。近年なぜか「パワースポット」として人気を呼び、一時期は数時間待ちの行列ができ整理券が出されるほどの混雑を呈していた。泉の写真を携帯電話の待ち受け画像にすると幸運が訪れるというインスタント御利益を求めて押し掛けた人々。だが、そのほとんどは、この泉を流れでた湧水が川となって原宿駅の東側に抜け、竹下通り沿いにかつて広がっていた水田を潤し、渋谷川に注いでいたということを知らないだろうし、興味すら抱かないだろう。今回の記事はそんな川のお話。
明治神宮御苑は広大な明治神宮の敷地の南寄りに位置する、日本式庭園だ。敷地の中央には東側から細長くいくつかに枝分かれした谷戸が食い込んでいる。それらの谷戸の最奥の窪地に「清正の井」はある。台地上から標高差にして4mほど。階段を谷底に下ったところに泉が湧き出ている。近年の混雑対策で、左側通行にするために設けられたグリーンのコーンが風景から浮いていて残念だ。



三方を斜面に囲まれた谷頭の底には、澄んだ水を湛えた円筒型の木枠が嵌め込まれている。一見縦に掘られた井戸に見えるが、実際には横井戸で、木枠の横に穴が開いている。修繕の際に行われた調査で、井戸の北側の台地上にある明治神宮本殿近辺の浅い地下水脈から湧き出ていることがわかったという。もともとあった谷頭型の湧水の「水みち」に、水を利用しやすいように手を加え井戸としたのだろう。



「清正の井」の名は「土木の神様」の異名を持つ加藤清正が掘ったとの伝承によるものだが、真相は定かではない。御苑の庭園は明治神宮のできるはるか以前、一帯が加藤家の下屋敷だった江戸初期につくられており、このことから清正に結びつけられたのではないかともいわれている。

井戸から溢れ出た水は丸太で整えられた細い水路となって、谷戸を下って行く。林の中には西側にもう一筋、水路の通る谷が見える。こちらにはふだんは水は流れていないが、辿っていくと御苑の外、神宮本殿の西側の森の中まで窪みが続いていて、途中には橋もある。



谷戸の谷底は菖蒲田となっていて、水は田の両側に分かれて流れていく。武蔵野台地に刻まれた川跡を追っていくと、谷戸地形の両側に暗渠や川跡が残っていて、間に挟まれた低地はかつて水田であったというケースがよく見られるが、こんな風景だったのだろう。写真の奥が上流側、清正の井のある方向である。撮影時はすでに花も終わり、田の水は抜かれていたが、毎年6月には菖蒲の花が咲き、大勢の見物客が訪れる。



菖蒲田の脇、畦の土留めの板に挟まれた水路をさらさらと水が流れていく。どこか郊外の山間の風景にも見え、すぐ近くに山手線の通る都心だとは思えない長閑さだ。



菖蒲田の下流側には「南池」が鬱蒼とした森の中に水を湛えている。明治神宮の敷地内には他に「東池」「北池」があるが、この「南池」が最も大きい。庭園一帯は加藤家から井伊家の下屋敷へと変わり、明治時代には周囲を含めて皇室の御料地となった。そして大正時代に明治神宮が作られた際にその中に取り込まれた。明治神宮の森は100年かけて照葉樹林に遷移するよう計画的に植樹された人工林(実際にはそれより早く70年で遷移が完了した)であることは最近ではよく話題にされているが、神宮御苑の一角だけはこのように江戸時代からの庭園を引き継いできた経緯から、武蔵野の雑木林がそのまま残っている自然林であることはあまり知られていない。



南池には、清正の井からの谷筋のほか池の北側からも細い谷筋からの水が合流しており、また、代々木公園との境目となっている谷筋からも、公園の池(地下水汲み上げ)からの水が注いでいる。これらの水をあわせて水量を増した川は、池から流れ出し渓谷を下っていく。原宿駅方面から神宮本殿に向かう参道に架かる「神橋」からその流れを見ることができる。自然林の再現を目指して造られた神宮の森であるが、この川沿いだけは、もともとは谷底の荒地だったところを庭園風に石を配して渓谷風に造園されている。左側からは池とは別の湧水から流れでた短いせせらぎも合流している。川は美しいが山手線の原宿駅臨時ホームに突き当たる手前で地中にその姿を消してしまう。



原宿駅の東側、竹下通りの入り口に立つと、通り沿いが谷筋になっていることがよくわかる。そして竹下通りに入った少し先、南側の路地裏に入ると、そこに先ほど姿を消した川の続きが、煉瓦色のタイルで舗装された暗渠路地となって現れる。路地には区間により名前がつけられていて、この辺りは「ブラームスの小径」とされている。



川の水は実際にはこの下を通ってはいないので、正確にはこれは「暗渠」ではなく「川跡」なのだろう。小洒落た名前をつけられた通りに行き交う人の多くは、ここが1960年代まで川であったことを知らない。だが、その僅かな曲がり具合や所々にかすかに残る痕跡が、かつてここが川だったことを控えめに主張している。通りの名の由来となったブラームス像の近くには、舗装がタイルではなくコンクリートとなっているところがある。かつての橋の痕跡ではないだろうか。



古い暗渠沿いによく見られる大谷石の擁壁も残っている。よく見ると暗渠につきものの継ぎ手排水管も見られる。竹下通り一帯は谷筋となっていて、谷底には明治時代後期まで水田があった。その南側の縁を流れていたのがこの暗渠だ。先の菖蒲田の規模を大きくしたものを想像していただくとイメージが掴めるだろう。



暗渠をまたぐ道路が嵩上げされていて、階段をアップダウンして越えるかたちになっている地点より先、暗渠は「フォンテーヌ通り」と名を変える。暗渠沿いの商業施設にある噴水がその名の由来だ。



川はかつて、渋谷町竹下と千駄ヶ谷町穏田の境界となっていた。暗渠は旧町名とも密接に関わっている。明治通り近くの谷が終わる辺りには、かつて川が流れていた頃につくられたコンクリート護岸が残っている。ブラタモリのパイロット版でもタモリの興味をひいていた護岸は風化し苔むして、いい味を出している。



残存護岸を過ぎると、暗渠沿いの谷は渋谷川の谷にあわさって開ける。谷の出口には「モーツァルト通り」の表示があり、脇の病院の玄関上にモーツァルトのレリーフが飾られている。要はみんな好き勝手に川からかけ離れた名前をつけているということか。すぐ先で明治通りに出た後は、あまり川跡らしからぬ道となって渋谷川の暗渠に至る。この区間は戦前には暗渠化されていたようだ。合流する手前で道がなくなってしまうため、かつての合流地点も不明瞭となっている。



なお、明治通りが開通する前に近辺に架かっていた「飴屋橋」と呼ばれる橋のところで分かれ、渋谷川に並行するように南下して、穏田神社近辺で渋谷川に合流しする流れもあった。こちらは穏田地区の水田の灌漑用に引かれた水路で、明治末には水田と共に消滅してしまったという。他にも明治神宮東池の方からも灌漑用に水路が引かれていて、途中から今回たどった暗渠の通る竹下通り沿いの谷筋の北側を流れ、渋谷川に合流していた。現在多くの人で賑わう竹下通りや明治通りの辺りは、わずか100年前は水田の脇に水路がいくつも流れる長閑な風景だったのである。

この100年間、ほぼそのままの姿を保ち続け、それ以前の武蔵野の面影すら残る清正の井から原宿駅までの区間、そして100年前の風景どころかここ数十年の間の変遷も想像のつかない原宿駅からの暗渠の区間。ひとつの川の流れが山手線を境にがらりと全く対照的な風景に切り替わるその様子は東京の水を巡る風景の中でも象徴的だ。

※なお、今回掲載しきれなかった写真をブログの方で補完掲載します(23日掲載予定)。
今回の記事に興味を持たれたかたはぜひ御覧ください。