江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地碑
江戸時代まで京浜国道あるいはJRの線路より東側は、現在は埋め立てにより海岸線は遠くなったが、かつては海であった。当時の海岸線沿いに幕末史跡が点在している。
JR田町駅西側の出口に向かうと、エスカレーターの前に巨大な絵画が掲示されている。一見すると何だか分からない現代アート風の作品であるが、よく見ると慶応四年(1868)三月、薩摩藩邸でおこなわれた西郷隆盛と勝海舟の会見をモチーフにしたものであることが分かる。

田町駅を降りて徒歩数分のロケーション、三菱自動車の社屋の前に江戸開城会見之地碑がある。
東征軍参謀西郷と幕府陸軍総裁勝の会見は、幕末維新史を飾る一つの事件として伝えられている。明治になってから勝海舟が盛んにこのときのことを回想しているために、大変有名なシーンとなった。
勝という人は、確かに時世眼鋭い人であったと思うが、多少自己顕示欲の強いところもあり、自己アピールのために相手役の西郷を過大に評価するようなところもあった。偉人であることに異論はないが、この辺に「生臭さ」が漂う。個人的な所感であるが、江戸無血開城の大方の方針は、勝との会見に先立ち単身駿府まで乗り込んだ山岡鉄舟と西郷との会談で決まったようなものではないのか。

田町駅
江戸無血開城をモチーフとした作品
薩摩藩邸跡


日本電気本社ビルのある場所に薩摩の上屋敷があり、ここは慶應三年(1867)十二月の焼き討ち事件の舞台となった場所である。同年十月頃から西郷隆盛の指示により、益満休之助、伊牟田尚平らが浪士を集め、江戸市中で乱暴狼藉を繰り返していた。十二月に入ると、挑発行為は更にエスカレートし、新徴組の詰め所に小銃が打ち込まれる事件が発生した。怒り心頭に達した庄内藩、新徴組および幕府側の諸藩兵は三田の薩摩藩邸を取り囲み、浪士の引き渡しを申し入れた。その際、応対に出た薩摩藩の留守居役篠崎彦十郎を血祭りにあげたところから、銃撃戦が始まった。当時、屋敷には二百人ばかりが居合わせたというが、百十三名が捕縛され、四十九人が戦闘で命を落とした。このとき虎口を脱した中には、のちに赤報隊を結成する相楽総三がいる。薩摩藩屋敷焼き討ちの報が大阪に伝わると、そのとき京都を追われて大阪城へ集結していた旧幕府軍、会津藩は一気に討薩論に傾き、鳥羽伏見の開戦へとなだれ込むことになった。結果的にまんまと薩摩の挑発に乗ることになった。

済海寺
最初のフランス公使館跡
西応寺
最初のオランダ公使館跡


聖坂を登りきった辺りにある済海寺は、初代フランス駐日総領事ベルクールが宿舎として使用した寺院である。ベルクールが駐在を始めた安政六年(1859)八月から明治三年(1870)四月までの十年以上に渡りフランス公使館として利用された。文久四年(1864)にはベルクールに替わって、幕末の政局にも大きな役割を果たしたロッシュが赴任している。
済海寺は、伊予松平(久松)家の菩提寺でもあり、墓域には幕長戦争や戊辰戦争にも出兵した松平勝成、定昭父子の墓もある。

西応寺という名前は残っているが、ほとんど寺というより幼稚園に成り代わっている。園庭に「オランダ公使宿館跡」の石碑が建てられている。安政六年(1859)初代公使クルティウスが駐在して以来、公使館として使用されたが、慶應三年(1867)十二月の薩摩藩邸襲撃事件の際、兵火により全焼した。

慶応大学 三田キャンパス西福沢諭吉胸像福沢諭吉終焉の地碑


慶應義塾大学構内の図書館は、創立五十周年を記念して明治四十五年(1912)に建設されたもので、外国人の手を借りずに日本人の設計監督によって建てられた洋風煉瓦館である。その後震災、戦災で被害を受けたが、修復して現在も現役である。図書館の前には、慶應義塾大学の創立者である福沢諭吉の胸像が置かれている。

慶応義塾大学の構内には、福沢諭吉終焉の地の石碑がある。福沢諭吉が息を引き取ったのは、明治三十四年(1901)二月のことで死因は脳出血であった。福沢は大学の構内に住居を構えており、ここが終焉の地となったのである。