topJR中央線は、神田駅から四ツ谷駅辺りまで神田川に並行している。この神田川が江戸城の外堀に当たる。
 四ツ谷駅を降りて新宿方面に行くと、愛染院、勝興寺、西応寺といった大小の寺院が密集する寺町である。愛染院には国学者塙保己一とその子、塙次郎の墓、勝興寺には「首斬り」の異名を持つ山田浅右衛門の墓、西応寺には剣客榊原鍵吉の墓があり、いずれも「墓好き」には無視できない存在であるが、今日は駅の東側を歩いてみよう。

四ツ谷駅を出て麹町方面に少し歩くと、路地を入ったところに、ビルや住宅に囲まれるようにして一つの寺院がたたずんでいる。本堂は鉄筋になっていて歴史は感じられないが、都心には珍しく広い墓地を伴った寺である。この寺の墓地に、万延元年(1860)の遣米使節団の副使を務めた村垣淡路守範正の墓がある。
 村垣範正は、文化十年(1813)旗本の家に生まれ、箱館奉行のあと、外国奉行と神奈川奉行を兼ね、万延元年(1860)に遣米使節副使として渡米。帰国後も日普通商条約交渉の全権、その後再び箱館奉行に任じられ、ロシア艦の対馬占拠事件ではロシア領事との折衝に当たった。慶應四年(1868)二月、病を得て退隠し、その後再び官途には就かなかった。
 村垣範正について、「機敏にして吏務に練達す」と賞賛する声(木村芥舟)がある一方、福地源一郎(桜痴)によれば「純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其の器に非ず」と副使に選ばれたことも評価していない。毀誉褒貶半ばする人物であるが、少なくとも幕末の外交をリードした官僚の一人であることは間違いない。明治十三年(1880)東京において没した。

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心法寺村垣家之墓


 上智大学の前を抜けてホテルニュー大谷の見える交差点辺りが、喰違見附跡である。土手に喰違見附跡を示す説明板が立っている。赤坂見附、四谷見附のように現在でも都内各所に「見附」という地名が残っているが、これは城門の警備のことを指している。転じて城門そのものも見附と呼ばれるようになったらしい。
明治六年(1873)の政変で所謂征韓論が退けられたことに不満を持つ高知県士族武市熊吉ら九名が、明治七年(1874)一月十四日、喰違門付近で時の右大臣岩倉具視を襲撃した。岩倉は一命を取り止め、武市以下は全員捕えられ斬刑に処されたが、政府の要人が襲撃されたという事件は世間に衝撃を与えた。
ホテルニュー大谷の場所は、かつて彦根井伊藩の中屋敷跡に当たる。ホテル前の植え込みの中に「近江彦根藩井伊家屋敷跡」と刻んだ石碑が建てられている。上智大学付近に尾張藩邸、赤坂プリンスホテル付近に紀州藩邸があったことから、この付近は紀尾井町と名付けられた。ホテルニュー大谷の前の坂道を紀尾井坂という。

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喰違見附跡紀尾井坂近江彦根藩井伊家屋敷跡尾張名古屋藩屋敷跡


紀尾井坂から赤坂プリンスホテルに向かう途中に清水谷公園がある。公園の中に「贈右大臣大久保公哀悼碑」と刻んだ石碑が立っている。台座も含めると高さ6.2メートルもある巨大なものである。明治十一年(1878)五月十四日、赤坂御所に向かう大久保利通の乗った馬車を島田一郎以下6名の石川県士族が襲った。馬車から引き摺り下ろそうと腕をつかんだ島田に対して、大久保は
「無礼者!」
と一喝した。これが大久保の最期の言葉となった。大久保は斬殺され、下手人はその足で警察に自首している。紀尾井坂の変と呼ばれる。

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紀伊和歌山藩
徳川家屋敷跡
谷中霊園
島田一良ら
大久保暗殺者の墓
中野 宝泉寺
九士の墓
(岩倉具視襲撃犯)


 明治六年の政変を経て、大久保は有司専制と呼ばれる独裁体制を築いた。このことで世の怨嗟を集め、終には暗殺されるに至った。盟友であった西郷隆盛と比べると、世間の人気も評価も極めて低いが、近代日本の基礎を作り上げた大久保の功績は無視できない。この人の場合、人気が無いといっても、地位を利用して私服を肥やしたということは一切なく、死後には多額の借金のみが残ったという。「為政清明」という言葉を好んで揮毫したが、まさにそれを実践した人物だったといえよう。

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清水谷公園 贈右大臣大久保公哀悼碑