1_地蔵坂バス停
今回ご紹介するのは、墨田区の墨堤通り上にある、京成タウンバスの「地蔵坂」バス停です。路線は、浅草寿町と亀有駅を結ぶ[有01]系統ですが、非常に運転本数の少ない路線ですので、実際にバスで訪ねる際は、事前に時刻表をよく確認することをお勧めします。
2_荷風

まずは、私の好きな永井荷風『濹東綺譚』(昭和12年)の一節から。
 「吹き通す川風も忽ち肌寒くなって来るので、わたくしは地蔵坂の停留場に行きつくが否や、待合所の板バメと地蔵尊との間に身をちぢめて風をよけた」


小説の舞台となる玉の井(現在の東向島界隈)への往復に、荷風は浅草からのバスをよく利用したようですが、当時の路線とほぼ同じ経路を辿るのが現在の[有01]系統で、地蔵坂バス停は作品中に「地蔵坂の停留場」として何度か紹介されています。同じく荷風の『寺じまの記』には、こんな記述も見つかります。
 「次に停車した地蔵坂というのは、むかし百花園や入金(いりきん)へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処で、路端に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな幟が紅白幾流れともなく立っている」


荷風が通った当時から既に半世紀以上が経過していますが、現在の地蔵坂バス停はどんな街並みになっているでしょうか。そんな期待を胸に秘めながら、浅草からのバスに乗り込むと、バスは水戸街道から墨堤通りに入り、首都高の向島入口を左にやり過ごすと、間もなく地蔵坂バス停に到着します。
3_地蔵堂

バス停から墨堤通りを東側へ渡ると、交差点の角に小さな地蔵堂があります。荷風の作品に描かれる「地蔵」がこれですが、江戸時代の隅田川堤防修復工事の際に、土中から掘り出された地蔵尊を祀っているといわれます。将軍家斉が鷹狩りの帰途にこの地蔵をお参りしたようで、堂を建てて地蔵を安置するようになったのはそれ以降のことのようです。
4_地蔵坂通り

地蔵堂の前から水戸街道へ抜ける通りが地蔵坂通り商店街で、地蔵堂前からほんの少しだけ下り傾斜が見られるのが、地蔵坂です。これも江戸時代の堤防修復工事の際にできた坂といわれ、坂そのものの存在感はきわめて薄いですが、地蔵坂の名はこの周囲の俗称としても定着しています。そもそも東京は坂の街といわれますが、それは山の手に限った話であり、下町でこうした坂が見られるのは、珍しいのではないでしょうか。
5_旧墨堤の道、案内板

地蔵堂の脇からは、弓状に湾曲した通りが墨堤通りに並行して延びていますが、これが墨堤通りの旧道で、「旧墨堤の道」と書かれた案内板が立っています。ということは、バス停も古くはこの道に面して立っていたのでしょう。荷風が「待合所の板バメと地蔵尊との間」と記す部分も、それで納得がいきます。
6_吉備子屋

地蔵堂の反対側の角では、「日本一きびだんご」の看板を掲げた吉備子屋さんに、近所の子供たちが頻繁に出入りしています。ついつられて私も店内へ。昔ながらのシンプルな吉備団子を頬張りながら、さてここから何処へ歩こうかと地図を広げます。荷風ファンとしては、玉の井へ足を伸ばすのもいいでしょう。また、かつて「鳩の街」と呼ばれた特飲街、いわゆる赤線の跡地もこの近くです。昭和の残り香を満喫する街歩きに格好のロケーションが、地蔵坂周辺には溢れています。