ここに昨年撮影した、1枚の古びた橋の写真がある。「青山橋」。東京都区内西南部を流れる「渋谷川」の下流である、古川に架かる橋だ。すぐ横にみえるのは首都高速2号線の天現寺出入り口である。
「青山橋」は、川沿いに居を構えた家が明治時代に架けた私設橋だ。かつては川の両岸にまたがって細長く「麻布新広尾町」がのびていて、川を挟んで行き来するために他にもこのような私設橋がいくつか存在したようだ。
橋は1936(昭和11)年に写真のような鉄筋のものになり、戦災を潜り抜けた。1960年代後半になると、川の北側、明治通りとの間の町並みは高速道路の建設と明治通りの拡幅で消滅し、南側にも家が建って、橋は両側が塞がれ人の行き来もできなくなった。上には物置まで設けられて、青山橋はすっかり「トマソン物件」的な無用の橋となった。
それでもなぜだか、青山橋は、75年間の歳月を忘れ物のように生き残ってきた。青山橋の架かる区間の古川は長らく戦前、橋が鉄筋となった頃と同時期につくられた護岸のままで、この一角だけは戦前の川の風景がそのまま残っていたともいえる。しかし、数年前から計画されていた護岸の改修工事がとうとう始まり、青山橋がなくなるのは時間の問題だろうと思われた。そしてこの秋、知人の知らせで現地に行くと、既に橋は無くなっていた。


切り落とされた付け根の鉄筋だけが北側の護岸に残っていた。これも護岸の改修とともに、やがて消えてしまうのだろう。そしてかつてここに橋があったことを思い出す人もなくなるのだろう。


川や川跡・暗渠沿いには、人知れずこんな古い風景の痕跡が残っていて、そしてこんな風に、ある日突然、人知れず消えていく。

無くなる橋がある一方で、下を流れる川が既に暗渠になりながら、「架け替えられる」橋もある。こちらは以前の記事で紹介した、「二軒家橋」。新宿区と渋谷区の境界近くという都会の真ん中で、1924(大正13)年に架けられた橋が、川が暗渠化された後もまるごとそのまま残されてきた。撤去する費用がなかったため、という話もあるくらいで、特に保存を意図して残されてきたわけではなく、たまたま結果としてそこにあり続けた橋だ。何時無くなってもおかしくない気もするし、一方で朽ち果てるまでずっとあり続けるような気もする、そんな橋だった。

その二軒屋橋も、つい最近、気が付けばこんな姿になってしまった。古い橋は跡形も無く、代わりに橋名を記したモニュメントのような欄干が両側につくられ、一応橋の体裁に施されてはいる。調べてみると、この工事は昨年秋、およそ5000万円で落札されたようだ。橋の場所にはボックスカルバートが埋められているようだから、実質的にはもはや橋とはいえないだろう。たまたま撤去予算が計上されたことで、大正・昭和・平成と生き延びてきた橋の命運は尽きた。

せめて欄干の親柱くらい残しておいてもよさそうなものだが、行政側からしたら、橋でもないのに欄干を作っただけましだろう、ということなのかもしれない。



暗渠を歩いていると、そこで見られる風景は川が姿を消すという、いわば「失われた後の風景」なので、ついそれは変化が起こった後の、固定化された風景だと思ってしまうところがある。しかし、その風景は決して終着点ではなく、他の風景と同じく絶えず変化は訪れる。こちらも以前の記事で取り上げた、東京は杉並区、善福寺川に並行して続いているコンクリート蓋の暗渠。かつては善福寺川沿いに広がっていた水田に水を引き入れるために、善福寺川からの分水や、支流の水を引き込んで設けられた水路だ。水田がなくなり、周囲が宅地化されされたのちもこうして蓋掛けして暗渠となって残されていた。雨水などの排水路として機能していたのだろう。傍らには畑も残り、アスファルトの中央に曲がりながら連なるコンクリートの蓋のラインが目を惹く一角だった。

しかし、気が付けばここも真新しいアスファルトで塗りつくされ、水路の痕跡は跡形なく消えた。以前の姿を知らなければ、ここがかつて水路だったことに気が付くことはもはやないだろう。役目を終えた水路など確かに無用の長物であるし、水が溜まれば蚊も出るかもしれない。埋められてしかるべきものだといえばそうなのだろう。



川や暗渠沿いには、時代の断層のように、古い風景の痕跡がぽつんぽつんと残っている。それらは川沿いで営まれた生活、あるいは自然の変遷の記憶の断片であるといってよい。しかし、それらも何時までも残っているわけではない。ただ無くなる時期がずれているというだけで、時の流れの中で風化し、先に失われた他の風景を追うように、人知れず無くなっていく。川沿いに残された土地の記憶は、こうしてすこしづつ薄れていく。暗渠を辿る者ができることは、その記憶を掬い上げ、拾い集めて、心の片隅の地図にそっと書き込んでおくくらいだ。