墨田公園
スカイツリーの開業で、異様な盛り上がりを見せている墨田区を歩く。今回はちょっと長距離になるので、ご覚悟を。
浅草から吾妻橋を通って隅田川の対岸に渡ると、そこは墨田区役所である。墨田区役所の敷地内に勝海舟の銅像が立つ。この銅像が建てられたのは、ようやく平成十五年(2003)のことである。墨田区の生んだ歴史上の大人物であり、江戸を戦火から救った大恩人でもある。都内に銅像が幾つあっても不思議ではないが、この不人気はどういうことだろう。
ここから北上するとすぐに墨田公園に行きつく。この公園の場所には、かつて水戸徳川家の下屋敷があった。園内には明治天皇が水戸徳川藩邸に行幸したことを示す碑や、藤田東湖の正気の歌の碑などが建てられている。弘化二年(1845)徳川斉昭が慎・隠居を命じられると、側近として使えていた東湖も、江戸水戸藩下屋敷内に幽閉されることになった。そのとき創られたのが正気の歌である。中国の文天祥に正気の歌という詩があり、それを基に創作されたものである。「天地正大の気 粹然として神州に鍾まる 秀でては不二の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ」から始まる漢詩は、日本古来の国体を賛美するもので、幕末の志士に止まらず、昭和初期の愛国の士に至るまで愛唱された。
明治八年(1875)四月、水戸藩下屋敷跡に当主昭武を明治天皇が訪ったのを記念した石碑が園内に建てられている。このとき木村屋がアンパンを献上したという記録が残っている。顕彰碑にある二峯先生とは、幕末から明治にかけて活躍した書家、高林二峯のことである。この碑の篆額は、勝海舟。
墨田公園の北側、水戸街道に面した場所に建てられた墨堤植桜の碑は、この地を愛した榎本武揚の篆額によるものである。当地の桜の起源は、四代将軍家綱の時代まで遡るが、明治に入ってからも成島柳北、大倉喜八郎、安田善次郎らの尽力で、付近の植桜が完成した。墨堤植桜碑は一旦、明治二十年(1887)に建碑されたが、堤が壊れて傾いたため、改めて明治二十九年(1896)に移設された。
墨田公園内の牛嶋神社は、かつて「王子権現」と呼ばれた。若き日の勝海舟がここで剣術修行に励んだという。なお、王子にある王子神社の公式HPには、「勝海舟も修行したと伝えられます」と記載されているが、さすがに両国から王子まで通うというのは無理があると思われる。
墨田公園からさらに隅田川沿いに北上すると、弘福寺という禅寺に出会う。若き日の勝海舟が、ここで禅を修業したと伝えられる。
弘福寺の隣り、長命寺境内には幕臣出身のジャーナリスト、成島柳北の肖像を描いた石碑がある。成島柳北は、外遊時代に得た生命保険制度の知識を活かし、日本の生命保険会社の草分けと言われる「共済五百人社」の創設に協力している。長命寺の石碑は、成島の実業家としての功績を記念したもので、没年の翌年明治十八年(1885)に建立されたものである。
成島柳北は、自分の住居を海棠園と名付け墨田川の畔に住んだ。言問小学校は、その住居跡である。小学校の脇に墨田区教育委員会の建てた説明書がある。柳北は、幕府の儒者の家に生まれ、騎兵奉行、外国奉行などを歴任した能吏であった。維新後は、新政府からの再三の誘いを固辞して、在野を貫いた。明治十七年(1884)十一月、四十八歳でこの地で亡くなった。
ここから七百~八百㍍ほど北上すると、右手に白髭神社がある。一見してありふれた神社であるが、境内には岩瀬鴎所(忠震)墓碑や鷲津毅堂など興味深い石碑がある。
岩瀬忠震は、幕末を代表する幕府の官吏である。将軍継嗣問題では井伊直弼と対立し安政六年(1859)八月、官位を剥奪された上、蟄居を命じられた。岩瀬は向島に隠居し、読書三昧の日々を過ごした。文久元年(1861)七月、自ら岐雲園と名付けた向島の自宅で亡くなった。岐雲園跡は、この近所のスーパー「ライフ」辺りと推定されている。「ライフ」の前に墨田区教育委員会が建てた説明板がある。
鷲津毅堂は、尾張藩出身の漢学者で、維新後は主に司法省で要職を歴任した。石碑の篆額は三条実美。
白髭神社から北に行くと、左手に屏風のように都営住宅の高層建物が連なる。その一角に榎本武揚の銅像が立っている。大礼服にサーベルという厳しい銅像である。晩年の榎本は向島を愛し、明治四十一年(1908)この地で終焉を迎えた。
<おまけ>
東武業平橋駅は、先ごろ「とうきょうスカイツリー駅」と名前を変えた。いかにも時流に乗った改名で感心しない。個人的にはどちらかというと批判的にとらえていたが、実際に旧業平橋駅に行ってみて、納得がいった。スカイツリーは、この駅の側に所在しているというより、駅の根本から生えているという印象である。これはもうスカイツリー駅と呼ぶしかないだろう。
勝海舟像 |
ここから北上するとすぐに墨田公園に行きつく。この公園の場所には、かつて水戸徳川家の下屋敷があった。園内には明治天皇が水戸徳川藩邸に行幸したことを示す碑や、藤田東湖の正気の歌の碑などが建てられている。弘化二年(1845)徳川斉昭が慎・隠居を命じられると、側近として使えていた東湖も、江戸水戸藩下屋敷内に幽閉されることになった。そのとき創られたのが正気の歌である。中国の文天祥に正気の歌という詩があり、それを基に創作されたものである。「天地正大の気 粹然として神州に鍾まる 秀でては不二の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ」から始まる漢詩は、日本古来の国体を賛美するもので、幕末の志士に止まらず、昭和初期の愛国の士に至るまで愛唱された。
正気歌碑 | 明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊址 |
(高林)ニ峯先生碑 | 明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊址 |
明治八年(1875)四月、水戸藩下屋敷跡に当主昭武を明治天皇が訪ったのを記念した石碑が園内に建てられている。このとき木村屋がアンパンを献上したという記録が残っている。顕彰碑にある二峯先生とは、幕末から明治にかけて活躍した書家、高林二峯のことである。この碑の篆額は、勝海舟。
墨田公園の北側、水戸街道に面した場所に建てられた墨堤植桜の碑は、この地を愛した榎本武揚の篆額によるものである。当地の桜の起源は、四代将軍家綱の時代まで遡るが、明治に入ってからも成島柳北、大倉喜八郎、安田善次郎らの尽力で、付近の植桜が完成した。墨堤植桜碑は一旦、明治二十年(1887)に建碑されたが、堤が壊れて傾いたため、改めて明治二十九年(1896)に移設された。
墨田公園内の牛嶋神社は、かつて「王子権現」と呼ばれた。若き日の勝海舟がここで剣術修行に励んだという。なお、王子にある王子神社の公式HPには、「勝海舟も修行したと伝えられます」と記載されているが、さすがに両国から王子まで通うというのは無理があると思われる。
墨田公園からさらに隅田川沿いに北上すると、弘福寺という禅寺に出会う。若き日の勝海舟が、ここで禅を修業したと伝えられる。
牛島神社 | 弘福寺 |
長命寺 成島柳北の碑 | 言問小学校 成島柳北の住居跡 |
弘福寺の隣り、長命寺境内には幕臣出身のジャーナリスト、成島柳北の肖像を描いた石碑がある。成島柳北は、外遊時代に得た生命保険制度の知識を活かし、日本の生命保険会社の草分けと言われる「共済五百人社」の創設に協力している。長命寺の石碑は、成島の実業家としての功績を記念したもので、没年の翌年明治十八年(1885)に建立されたものである。
成島柳北は、自分の住居を海棠園と名付け墨田川の畔に住んだ。言問小学校は、その住居跡である。小学校の脇に墨田区教育委員会の建てた説明書がある。柳北は、幕府の儒者の家に生まれ、騎兵奉行、外国奉行などを歴任した能吏であった。維新後は、新政府からの再三の誘いを固辞して、在野を貫いた。明治十七年(1884)十一月、四十八歳でこの地で亡くなった。
白鬚神社 | 岩瀬鴎所墓碑 |
鷲津毅堂碑 | 岐雲園跡 |
ここから七百~八百㍍ほど北上すると、右手に白髭神社がある。一見してありふれた神社であるが、境内には岩瀬鴎所(忠震)墓碑や鷲津毅堂など興味深い石碑がある。
岩瀬忠震は、幕末を代表する幕府の官吏である。将軍継嗣問題では井伊直弼と対立し安政六年(1859)八月、官位を剥奪された上、蟄居を命じられた。岩瀬は向島に隠居し、読書三昧の日々を過ごした。文久元年(1861)七月、自ら岐雲園と名付けた向島の自宅で亡くなった。岐雲園跡は、この近所のスーパー「ライフ」辺りと推定されている。「ライフ」の前に墨田区教育委員会が建てた説明板がある。
鷲津毅堂は、尾張藩出身の漢学者で、維新後は主に司法省で要職を歴任した。石碑の篆額は三条実美。
白髭神社から北に行くと、左手に屏風のように都営住宅の高層建物が連なる。その一角に榎本武揚の銅像が立っている。大礼服にサーベルという厳しい銅像である。晩年の榎本は向島を愛し、明治四十一年(1908)この地で終焉を迎えた。
榎本武揚像 |
<おまけ>
東武業平橋駅は、先ごろ「とうきょうスカイツリー駅」と名前を変えた。いかにも時流に乗った改名で感心しない。個人的にはどちらかというと批判的にとらえていたが、実際に旧業平橋駅に行ってみて、納得がいった。スカイツリーは、この駅の側に所在しているというより、駅の根本から生えているという印象である。これはもうスカイツリー駅と呼ぶしかないだろう。
スカイツリー |