都心では「鉄道代替」の路線バスといっても、あまりピンと来ないかもしれませんが、現在も都営バスの多くの路線が都電の代替というルーツを持つ他、世田谷区の二子玉川にも、鉄道廃止後の代替路線バスが走っています。それが、今回ご紹介する東急バス[玉06]系統です。
「玉電」の愛称で親しまれた東急玉川線は、下高井戸支線(現在の世田谷線)を残し、昭和44年に玉川線(渋谷~二子玉川園)、砧線(二子玉川園~砧本村)が廃止されました。玉川線が後に地下鉄直通の新玉川線(現在は田園都市線)として生まれ変わったのは周知の通りですが、砧線については路線バスへの置き換えのまま、現在に至っています。まずはこの程度の予備知識を頭に入れて、早速バスに乗り込んでみましょう。

二子玉川駅バスターミナルを発車した砧本村行きのバスは、西口側の高島屋の角を左折し、西へと走ります。地図を見ると、このバス通りの北側に遊歩道が並行していますが、これが砧線の廃線跡です。こちらは後ほど歩いてみることにします。
02_吉沢橋を渡るバス
バスはやがて中耕地バス停に止まります。砧線時代の駅名と同名のバス停で、田園風景の広がっていたかつての景観が偲ばれるような名が、今もそのまま残っています。ここは大山街道の旧道が南北に交差する場所でもあり、旧街道は商店街として賑わっています。

左手から多摩堤通りが合流すると、バスは間もなく吉沢橋交差点を左折し、吉沢バス停に止まります。砧線時代の吉沢駅の跡地です。この先、バスは住宅街の道路に転用された砧線廃線跡を忠実に辿るようになります。すぐ目の前の野川を渡る吉沢橋は、つい数年前まで砧線用の橋が道路橋として使われていましたが、現在は新しい橋に架け変わりました。
03_砧線跡の道路を走るバス
廃線跡の道路は狭い一方通行で、バスはゆっくりと進んでいきます。左手には多摩川左岸の砧下浄水場が見えますが、ここは大正12年に渋谷町営水道が建設したという小規模な浄水場で、当時からの西洋館風のポンプ室など、近代建築遺産というべき建造物が残されています。砧線時代から変わらぬ景観という意味でも、貴重な存在です。

正面に駒澤大学玉川キャンパスが見えると、右手にバスの折り返し場が現れ、終点の砧本村バス停に到着です。もちろん、砧本村の名も砧線時代の駅名を引き継いでいます。実際には、折り返し場手前の公園付近が駅の跡地のようで、折り返し場は駅前広場のような空間だったのかもしれません。その一画に、砧線時代からと思われる小さな喫茶店がありますが、店名が「ターミナル」というのも、ここがかつて駅前だった証のようで興味深いです。そして注目すべきは、バスの待合所で、砧線時代のホーム屋根がそのまま転用され、現在も使われています。そのフォルムは往時の駅の姿を彷彿とさせるに十分といえます。
04_砧本村の折り返し場と待合所
さて、帰路は廃線跡をぶらぶらと歩いてみることにします。見どころとしては、吉沢橋に掲げられた電車のレリーフと昭和36年当時の写真、遊歩道に置かれた各種モニュメントでしょう。レールを使ったガードレールや、電車のイラストをあしらったマンホール、駅の跡地を示す碑などが随所に見られ、廃止から40年以上を経た現在にあっても、砧線時代の思い出が大切に残されている様子に嬉しくなります。
05_随所に見られる砧線のモニュメント
最後に、ぜひ立ち寄っておきたい場所として、中耕地バス停そばにある「大勝庵(玉電と郷土の歴史館)」をご紹介しておきます。以下、パンフレットの紹介文です。
この歴史館は『そば処大勝庵』に併設展示していた玉電と郷土の歴史的遺産を平成23年11月に『大勝庵 玉電と郷土の歴史館』として再出発させたものです。
館内には玉電時代から世田谷線として活躍した70形の71号車の運転台とゆかりの品々。館外にはパンタグラフ・中耕地駅そば踏切支柱・排障機・砧線の鉄道柵・大橋・玉電瀬田の敷石・用賀の淵石・等々が展示してあります。

06_玉電と郷土の歴史館

気さくなご主人のお話しも、楽しいですよ。