写真1
今回は、墓地に隣接するラブホテル街を散歩します。
あるホテル経営者によると、「同伴旅館(ラブホテル)をどんなところに建てたらよくはやるか。昔からジンクスがあって、墓地が病院のそばか、さもなくば質屋の真向かいだったら繁盛間違いなし。」といわれていたそうです(朝倉喬司「ヤクザ・風俗・都市」現代書館,2003)。ラブホテルは、人通りの多い場所にあると、誰かに見られているのではないかと気になるものです。かといって、大通りからあまり離れてしまっては利便性が悪くなるので、大通りから一歩入った人目につきにくい場所、たとえば、墓地や病院や質屋のそばという立地が好まれるわけです。つまり、墓地、病院、質屋、ラブホテルなどの非日常の空間は、同じ場所に集まっていた方が便利ということなのでしょう。

実際、このような立地をよく見かけます。京急川崎駅前には、宗三寺の墓地が広がっていて、その隣にはラブホテルと質屋があります。このあたりは、江戸時代、旧東海道の川崎宿として栄えていた場所で、宗三寺も江戸時代からありました。その後、川崎駅周辺は近代的な繁華街へと変貌を遂げましたが、この宗三寺の墓地は昔のまま残り、これに吸い寄せられるような形でラブホテルが開業したものと思われます。
写真2

新宿区の新大久保周辺のラブホテル街も同様で、長光寺と金龍禅寺の2つの寺の墓地の周囲を取り囲むようにして、ラブホテルが建ち並んでいます。大久保のラブホテル街の特徴は、南北に貫く何本かの路地のいずれも道幅が狭く、ラブホテル街として好条件な隠れ里的な立地を作り出している点ですが、この理由は江戸時代にさかのぼります。江戸時代、この付近は、鉄砲百人組の下級武士の屋敷があった場所で、下級武士の屋敷地は、間口が狭く奥行きの長い短冊状の敷地でした。明治以降になると、短冊状の敷地の境界線に路地を入れて、細長い敷地の奥の方に貸家が建てられ、現在のような密集市街地が形成されました。「新宿文化絵図」(新宿区地域文化部文化国際課,2007)の「江戸・明治・現代重ね地図」を見ると明治時代には、敷地の形状に合わせ、細長い墓地の形状も出来上がっていたことが解ります。そして、昭和に入ると、墓地の周囲に同伴旅館が建ち、現在のラブホテル街が出来上がりました。
写真3

写真中央部に見える森が金龍禅寺の墓地です。墓地は南北に細長く伸びていて、その東側(写真左側)がラブホテル街(現在は韓流ショップが混在)となっています。
写真4