隅田川の桜橋近く、待乳山聖天の脇から山谷堀公園が北西方向へ続いています。ここは、かつての山谷堀があった場所で、山谷堀は、吉原遊廓への通路の一つでした。
江戸時代、吉原遊廓へは、歩く人もいれば、お金持ちの中には、駕籠で向かう人や山谷堀を猪牙船(ちょきぶね、一人乗りの水上タクシーのようなもの)で行く人もいました。堀には、下流から、今戸橋、聖天橋、吉野橋、正法寺橋と橋がかけられていて、山谷堀の吉原大門に近いところに、紙洗橋がありました。今でも橋台のみが昔の面影を残しています。


 紙洗橋の名は、この一帯で紙が浅草紙と呼ばれたくず紙を原料とした漉返紙(すきがえしがみ)が生産されていたことに由来します。浅草紙は、別名、「落とし紙」、「便所紙」などと呼ばれたネズミ色をしたチリ紙で、トイレットペーパーが普及する以前まで日本全国で使われました。下の写真は、足尾銅山の共同便所の染付古便器ですが、ここには、トイレットペーパーは無く、昔の浅草紙を思わせるようなチリ紙が置かれており、当時の便所の雰囲気を伝えています。


 遊女と紙の文化を結びつけるものとして、「『ひやかす』という言葉の語源は、吉原の遊女に関係がある。」という話があります。浅草紙の生産の第一の工程は、原料である紙屑を紙舟に入れて数時間、山谷堀の流れにさらしておく工程で、これを「紙をひやかす。」と呼びました。職人達は、紙を冷やかしている間は暇なので、吉原へ遊女を見に行きました。しかし、紙の冷やかしの工程は、二時間程度なので、次の工程に入るために職人たちはすぐに戻らなければなりません。これがもとで、遊女をからかうだけで帰ってしまう客のことを「ひやかし客」と呼ぶようになり、現在では、買い物をする意志がないのに、品物を見ることを「ひやかす」と言うようになりました。


遊女は紙を多く消費するという点において、遊女と紙は密接な関係がありました。遊女にとって大事な商売手段は手紙であり、吉原遊廓は、高級な紙を惜しげもなく消費した別天地でした。このため、吉原の近くでは、屑紙を原料とした紙漉きの産業が栄えました。
 また、遊女は、性交用としても紙をたくさん消費しました。秋田県男鹿地方では、遊女のことをヤギ(山羊)呼んでいましたが、これは、山羊のように紙をたくさん食べる(=紙を多く消費する)ことから、このように呼ばれるようになったそうです。(写真は、秋田県男鹿の遊里跡のあけぼの町)