世田谷とは不思議な場所である。安政の大獄で処刑された松陰を処刑した大老井伊直弼、更に言えば幕府の権力を強化しようとした人間と倒幕の原動力となった門下生を育てた人物が背中合わせになっているのである。
まず松陰神社。松陰の遺体が、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、赤禰武人、堀真五郎らの手によってこの地に改葬されたのは文久三年(1863)一月のことである。この地は毛利家の火除け地であり、毛利家の官名に従って太夫山と称された。それまで松陰の遺体は、小塚原に埋められたままであったが、久坂玄瑞らの働きかけによって大赦令が発せられ、晴れて遺骸を移すことができたのである。このとき松陰のほか、同じく安政の大獄で刑死した小林良典、頼三樹三郎の遺骸も小塚原から移されている。のちに芝の青松寺から松陰の友人である来原良蔵の墓も改葬された。この地が神社となったのは明治十五年(1882)である。境内には萩にある松下村塾を模したものまで建てられている。
中谷正亮は、松陰が刑死したあと、遺志を継いで松下村塾の運営に参画した人物。薩摩藩の有馬新七らと交わり、義挙へ参加することを約したが、寺田屋事件により頓挫した。その後、藩命により江戸に上ったが、そこで病を得て急死した。三十五歳であった。
野村靖は、入江九一の実弟。十六歳で松下村塾に入門し、兄とともに下獄した松陰に尽くし、投獄されたこともある。維新後は、宮内大丞、ついで外務大書記として岩倉使節団に随行して欧米を歴遊。駐仏公使、内務大臣、逓信大臣を務め、明治四十二年(1909)、六十七歳にて歿。明治四十四年(1911)当地に埋葬された。
神社の鳥居前にあるのは広沢真臣の墓碑である。広沢真臣が暗殺されたのは、明治四年(1871)一月九日未明のことであった。当時、広沢は新政府の参与に任じられており、長州藩では木戸孝允を凌ぐ権勢を誇っていた。佐々木克著『志士と官僚』(講談社学術文庫)によれば、広沢は大久保とともに、新政府の標榜する中央集権化を推し進めており、当時の政府を代表する有能な官僚であった。横井小楠、大村益次郎に続き、高官を暗殺された新政府は犯人検挙に全力を挙げた。八十余名に及ぶ容疑者が捕らえられたが、遂に真犯人は謎のままである。なお広沢真臣の遺体は、芝青松寺に埋葬されたが、明治十七年(1884)松陰神社に改葬された。
世田谷は、かつて彦根井伊家の領地であった。その縁で豪徳寺は江戸における井伊家の菩提寺になっている。境内には井伊直弼ほか、井伊家歴代の墓が静かに並んでいる。
井伊直弼の墓には戒名「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」が刻まれている桜田門外の変で斬殺された井伊直弼の死は、二月近く秘匿された。そのため墓には、その死が公表された閏三月二十八日歿と刻まれている。井伊直弼の墓の背後に、寄り添うように夫人貞鏡院昌子の墓が建てられている。昌子は、亀山藩主松平信豪の娘である。明治十八年(1885)五十一歳で亡くなっている。
井伊直弼の墓の背後にある二つの墓碑に注目したい。一つは、桜田門外の変に際して主君を守って討死した八人の藩士の供養塔である。もう一つは井伊直弼の墓守として一生を終えた元彦根藩士遠城謙道の墓碑である。
豪徳寺仏殿の前に忠正公神道碑が建てられている。篆額は井伊直安。撰文は旧彦根藩士谷鐡臣。「忠正」は、井伊直憲の法名。十三歳で直弼のあとを継いで彦根藩主となった。王政復古とともに、直ちに藩の方針を勤王と定め、鳥羽伏見では官軍に加わった。彦根藩は関東・東北を転戦し、戦後賞典禄二万石を下賜された。維新後は、彦根藩知事。旧領の教育、産業の発展に尽した。明治三十七年(1904)、五十七歳にて死去。
豪徳寺には、岡本黄石の墓もある。岡本黄石は、彦根藩家老宇津木兵庫の三男として文化八年に生まれ、十六歳で同じく家老の岡本織部祐の養子となって家督を継いだ。儒学を好み梁川星巌に師事し、渡辺崋山、大槻磐渓らと交わった。桜田門外の変後、長野主膳と宇津木六之丞を斬刑に処し、藩を勤王に転向させた。幼少の藩主直憲を助け維新を乗り切った。漢学者、書家としても優れ名を残した。明治三十一年(1898)、八十八歳で病死。
日下部鳴鶴は、幕末・明治を代表する書家で近代書道の父とも称される。本名は東作。やはり彦根藩士の家に生まれた。明治初年には太政官大書記官まで務めていたが、大久保利通の横死を機に退官してその後は書に専念した。大正十年(1922)に亡くなった。
瘞首塚碑は、小山に出兵して戦死した彦根藩士十一名の慰霊碑である。小山戦争は、慶應四年(1868)四月十七日、伝習隊を主力とした旧幕軍と新政府軍との間で交わされた激戦で、この戦闘により新政府軍は壊滅的敗北を喫した。青木貞兵衛率いる彦根藩砲隊は、伝習隊に囲まれ全滅した。
松陰神社と豪徳寺の間は、歩いて二十分ほど。ほかにも松陰の旧友土屋簫海の眠る勝国寺や世田谷代官屋敷もあり、散歩コースとしてもお勧めである。
松陰先生像 | 松陰の墓(中央) 吉田寅次郎藤原矩方墓 | 長藩 中谷正亮源實之墓 |
来原良蔵妻和田春子之墓 | 子爵野村靖之墓(右) 夫人野村花子之墓 | 長州藩邸没収事件関係者慰霊碑 |
長藩第四大隊戦死者招魂碑 | 松下村塾模型 | 広沢真臣顕彰碑 |
中谷正亮は、松陰が刑死したあと、遺志を継いで松下村塾の運営に参画した人物。薩摩藩の有馬新七らと交わり、義挙へ参加することを約したが、寺田屋事件により頓挫した。その後、藩命により江戸に上ったが、そこで病を得て急死した。三十五歳であった。
野村靖は、入江九一の実弟。十六歳で松下村塾に入門し、兄とともに下獄した松陰に尽くし、投獄されたこともある。維新後は、宮内大丞、ついで外務大書記として岩倉使節団に随行して欧米を歴遊。駐仏公使、内務大臣、逓信大臣を務め、明治四十二年(1909)、六十七歳にて歿。明治四十四年(1911)当地に埋葬された。
神社の鳥居前にあるのは広沢真臣の墓碑である。広沢真臣が暗殺されたのは、明治四年(1871)一月九日未明のことであった。当時、広沢は新政府の参与に任じられており、長州藩では木戸孝允を凌ぐ権勢を誇っていた。佐々木克著『志士と官僚』(講談社学術文庫)によれば、広沢は大久保とともに、新政府の標榜する中央集権化を推し進めており、当時の政府を代表する有能な官僚であった。横井小楠、大村益次郎に続き、高官を暗殺された新政府は犯人検挙に全力を挙げた。八十余名に及ぶ容疑者が捕らえられたが、遂に真犯人は謎のままである。なお広沢真臣の遺体は、芝青松寺に埋葬されたが、明治十七年(1884)松陰神社に改葬された。
豪徳寺 仏殿 | 井伊直弼墓 | 桜田殉難八士之碑 |
遠城謙道墓碑 | 井伊直憲公墓 | 忠正公神道碑 |
黄石岡本先生墓 | 日下部東作(鳴鶴)之墓 | 瘞首塚碑 |
世田谷は、かつて彦根井伊家の領地であった。その縁で豪徳寺は江戸における井伊家の菩提寺になっている。境内には井伊直弼ほか、井伊家歴代の墓が静かに並んでいる。
井伊直弼の墓には戒名「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」が刻まれている桜田門外の変で斬殺された井伊直弼の死は、二月近く秘匿された。そのため墓には、その死が公表された閏三月二十八日歿と刻まれている。井伊直弼の墓の背後に、寄り添うように夫人貞鏡院昌子の墓が建てられている。昌子は、亀山藩主松平信豪の娘である。明治十八年(1885)五十一歳で亡くなっている。
井伊直弼の墓の背後にある二つの墓碑に注目したい。一つは、桜田門外の変に際して主君を守って討死した八人の藩士の供養塔である。もう一つは井伊直弼の墓守として一生を終えた元彦根藩士遠城謙道の墓碑である。
豪徳寺仏殿の前に忠正公神道碑が建てられている。篆額は井伊直安。撰文は旧彦根藩士谷鐡臣。「忠正」は、井伊直憲の法名。十三歳で直弼のあとを継いで彦根藩主となった。王政復古とともに、直ちに藩の方針を勤王と定め、鳥羽伏見では官軍に加わった。彦根藩は関東・東北を転戦し、戦後賞典禄二万石を下賜された。維新後は、彦根藩知事。旧領の教育、産業の発展に尽した。明治三十七年(1904)、五十七歳にて死去。
豪徳寺には、岡本黄石の墓もある。岡本黄石は、彦根藩家老宇津木兵庫の三男として文化八年に生まれ、十六歳で同じく家老の岡本織部祐の養子となって家督を継いだ。儒学を好み梁川星巌に師事し、渡辺崋山、大槻磐渓らと交わった。桜田門外の変後、長野主膳と宇津木六之丞を斬刑に処し、藩を勤王に転向させた。幼少の藩主直憲を助け維新を乗り切った。漢学者、書家としても優れ名を残した。明治三十一年(1898)、八十八歳で病死。
日下部鳴鶴は、幕末・明治を代表する書家で近代書道の父とも称される。本名は東作。やはり彦根藩士の家に生まれた。明治初年には太政官大書記官まで務めていたが、大久保利通の横死を機に退官してその後は書に専念した。大正十年(1922)に亡くなった。
瘞首塚碑は、小山に出兵して戦死した彦根藩士十一名の慰霊碑である。小山戦争は、慶應四年(1868)四月十七日、伝習隊を主力とした旧幕軍と新政府軍との間で交わされた激戦で、この戦闘により新政府軍は壊滅的敗北を喫した。青木貞兵衛率いる彦根藩砲隊は、伝習隊に囲まれ全滅した。
松陰神社と豪徳寺の間は、歩いて二十分ほど。ほかにも松陰の旧友土屋簫海の眠る勝国寺や世田谷代官屋敷もあり、散歩コースとしてもお勧めである。