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電柱には、電線や通信線の保守管理を効率よく行うための電柱番号札が取り付けられています。電柱番号札の区域 名には、電柱を設置した当時の町名や通りの名、駅、学校、公園などの公共施設名、企業名、住宅団地名、寺社名などが使われているため、付近の旧町名や付近にあった施設などを知る手がかりとなります。今回は、「遊園地」と書かれた電柱番号札をたどり、かつての遊里の痕跡を散歩します。
江戸時代より、行楽のために郊外へ出かけることは庶民にとっての楽しみの一つでした。明治時代に入り、鉄道などの交通機関が発達すると郊外行楽地が発達し、この中には「遊園地」と称する行楽施設が多数存在していましたが、共有の庭園や近郊の歓楽街を慣用的に「遊園地」や「遊園」と呼んでいるだけで、明確な定義がありませんでした。
東京都江東区の亀戸の天祖神社の南側に、「遊園地」と書かれ た電柱番号札のある一画が存在します。これは、明治39年、旧津軽藩屋敷跡地に「亀戸遊園地」と称する行楽地が建設されたもので、「揚弓処」「揚的処」「碁会所」「料理屋旅館」「造花屋」「新聞縦覧所」「銘酒屋」などの営業名で、私娼街が形成されました。現在において「遊園地」と言えば、飛行塔や観覧車、メリーゴーランドなどが待つ『子供たちにとっての憧れの夢の国』を指す言葉ですが、「亀戸遊園地」は、『大人向けの遊園地』でした。
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江東区の東陽一丁目に、「遊園」と書かれた電柱番号札があります。ここは、かつて洲崎遊廓があった場所です。洲崎遊廓は、根津にあった遊廓が明治21年に移転したもので、戦後は東側の半分だけが赤線の指定地になりました。「遊 園」の電柱番号札は、赤線の指定地だった東側の一画でみることができます。
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都営洲崎住宅に隣接する東陽一丁目第二公園(警視庁洲崎病院の跡地)には、遊廓で亡くなった無数の娼妓の霊をなぐさめるための法要を行った際の供養碑が残されています。
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「遊園地」が正式に定義され、健全化が図られたのは、大正15年の警視庁の「遊園地取締規則」が制定後ですが、昭和に入っても花街を伴う大人寄りの遊園地が存在しました。
羽田の穴守は、京浜急行電鉄の開通に伴い建設された行楽地で、「東京南郊交通図」には、「遊園地」と記載されています。穴守には芸妓屋がたくさんでき、実質的には遊廓的な役割を担うこともありました。花街だった穴 守は現在は羽田空港となり、鳥居だけが残されています。






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