板橋は中山道の最初の宿場町で、平尾宿、中宿、上宿から構成されていた。今日はJR板橋駅から旧中山道を歩いてみる。
 板橋駅東口を出ると、探すまでもなく「新選組組長 近藤勇墓所」と書いた看板が目に飛び込んでくる。近藤勇の菩提寺である寿徳寺の境外墓地で、ここには近藤勇の墓のほか、新選組隊士供養塔、永倉新八の墓、近藤勇石像、肖像石板などが建てられている。

新選組供養塔近藤勇の墓近藤勇石像新選組永倉新八墓


新選組供養塔の正面には、近藤勇宜昌(正しくは昌宜)土方歳三義豊之墓と刻まれ、右側面には戦死者三十九名、左には病死者或いは切腹した隊士七十一名の名前が刻まれている。また裏側には発起人として杉村義衛すなわち永倉新八の名前がある。供養塔の傍らにある小さな自然石の墓が近藤勇の墓である。板橋刑場で斬首された近藤勇の胴体が、この地に密かに埋葬されたという。

 さて、ここから少し北に歩いて旧中山道に出よう。旧中山道は国道17号(現在の中山道)で分断されているように見えるが、更に北西に続いている。入口には板橋宿という看板があり、その奥に商店街が続く。花の湯という銭湯の手前の小道を右折して、少し進むとアパートの前に板橋宿平尾町脇本陣跡の黒い石碑が建っている。近藤勇は流山で恭順したあと、ここ平尾町脇本陣豊田市右衛門邸に幽閉されたと言われる。

板橋宿平尾町脇本陣跡旧水村玄同宅跡板橋宿本陣跡板橋宿中宿脇本陣
名主飯田総本家


 中宿本陣跡の向かい辺りに医師水村玄洞宅跡がある。幕府の対外政策を批判した高野長英は江戸小伝馬町の獄舎に囚われたが、弘化元年(1844)六月、火災に乗じて脱獄に成功。七月に自分の門下生であった水村玄洞宅に現れた。水村は身の危険を省みず、一両日高野を匿い、七月晦日の深夜に北足立郡尾間木村に住む実兄高野隆仙宅へ逃れさせた。その後、高野長英は近畿から四国へ逃亡生活を続け、再び江戸に舞い戻ったが、嘉永三年(1850)十月三十日、青山町の隠れ家を幕吏に襲われ自害した。

 さらに商店街を進と板橋に行き着く。板橋という地名の由来となった橋である。江戸時代の板橋は、太鼓状の木製のものであったが、自動車の普及に対応するため、昭和七年(1932)には早くもコンクリート製に架け替えられている。現在の板橋は昭和四十七年(1972)製である。
 板橋より先は上宿である。上宿に縁切榎と呼ばれる古木があった。和宮下向に際して、この榎を避けるためにわざわざ迂回路を作ったという。
 たかが迷信のために大仰なことと思うが、当時、東海道を使わずに中山道を選んだのも、途中で(“去った”に通じる)薩埵峠を忌避したためとの説もある。東海道は川の増水による日程の遅延が頻発したのに対し、中山道は、日程は長いものの、川越えがないことから当時から女性には良く利用されていたというのが真相のようである。

板橋縁切榎加賀西公園
圧磨機圧輪記念碑
子爵渋澤栄一像


 旧中山道板橋宿の散歩はここまで。体力が残っていれば、帰路は中山道を離れて迂回してみよう。かつて中山道の北側には、加賀藩下屋敷の広大な敷地が広がっていた。現在、加賀町という町名に名残と留めているが、加賀西公園内には幕末、この地に幕府の火薬製造所が開設された。幕府の命を受けた澤太郎左衛門は、ベルギーで圧磨機用圧輪を買い当地の火薬製造所に導入した。この火薬製造設備は維新後も新政府に引き継がれ、明治三十九年(1906)まで使用されたという。

 加賀町まで歩くのは結構大変なので、板橋区役所近くの東京都老人医療センターへ足を伸ばすことをお勧めしたい。敷地内に渋沢栄一像が置かれている。
 明治五年(1872)、東京本郷に養育院が創設された。養育院とは、身寄りのない子供や老人を養う施設である。渋沢栄一は、明治九年(1876)に養育院の事務長(院長)に就任し、以来昭和六年(1931)に逝去するまで、約五十年以上にわたりその任にあった。養育院は大正十二年(1923)に板橋に移転した。この渋沢栄一像は、大正十四年(1925)に完成し除幕されたものである。