失われた東京の原風景を後世に伝える地名、そしてそれがバス停名としても使われている事例として、今回は「溜池」バス停をご紹介します。
 渋谷駅から西麻布、六本木を経由して新橋駅に至る都営バスの路線は、[都01]の系統番号を名乗る都心の筆頭路線ですが、渋谷駅からこのバスに乗ると、赤坂アークヒルズ前のひとつ先で、溜池に到着します。場所は六本木通りと外堀通りの交差点で、近くには平成9年に開業した地下鉄の溜池山王駅があります。

地下鉄の新駅に溜池の名が採用されたことからもわかるように、溜池は交差点を中心にこの周辺の俗称として現在も確固たる地位を持つ地名ですが、昭和41年の住居表示施行までは現在の赤坂2丁目の一部に、赤坂溜池町の町名がありました。古来、溜池と呼ばれた大きな池があった場所で、江戸期には江戸城外濠の一部として機能していました。町名消滅とほぼ同時期に、交差点にあった都電の溜池電停も廃止撤去されたため、本来なら人々の記憶から消し去られてもおかしくない地名のひとつですが、バス停だけはその後も溜池の名を守り続け、失われた原風景の記憶を黙々と後世に伝え続ける役目を果たしてきました。

明治初年頃の地図を見てみると、かつての溜池は、交差点付近を中心に東西に細長く横たわっていたことがわかります。さらに時代を遡れば、溜池は赤坂から新橋付近までの広々とした大池だったともいわれ、ひょうたん池とも呼ばれたようです。この池が江戸城外濠の一部として築き止められたのは、慶長11年(1606)のことで、玉川上水開削以前は、この池が江戸の上水道の水源にもなっていました。埋立ては江戸期から進められ、明治初年頃は東西に約1.5キロ、幅は最も狭いところで50メートル足らずだったといいます。明治5年には山王社参詣のための渡船もあったようですが、同8年頃から水を落として干潟のようになり、同21年にその跡地が町地となり、赤坂溜池町が起立しました。

外堀通りを歩いてみると、溜池の跡地が北側の山王社から首相官邸にかけての高台と、南側のアメリカ大使館からホテルオークラにかけての高台に挟まれた窪地であることがよくわかり、水の溜まる大きな池がここにあったとしても、決して不思議ではない地形だと実感できます。起伏に富んだ地形は、坂道の宝庫でもありますが、アメリカ大使館前から潮見坂、江戸見坂、霊南坂とまわって溜池交差点に戻れば、ちょっとした坂道散策も楽しめます。