プロローグ…昭和は蚊の時代だった

今では使うことも少なくなったが、昭和30~40年代は蚊取り線香の全盛時代だったと思う。
当時住んでいた僕の家は名古屋市郊外にあり、河川段丘を整地した何もないところに、雨後の竹の子のように建ち始めた市営団地の一室だった。
それまで、木造の長屋に住んでいた新婚間がない両親は、昭和34年に団地の抽選に当たってずいぶん喜んだという。皇太子のご成婚をはずみに高度経済成長の幕が開き、人々の表情が活気に溢れていた、そんな時代だった。
団地の周りには、戦後10年以上経っていたにも関わらず、少し足を伸ばせば、子供たちが“ばくだん池”と呼ぶ空襲のつめ跡や瓦礫の山など、戦争の傷跡がそこかしこに残っていた。今ではすっかり変わってしまったが、畑や雑木林もあって、夏の早朝にはカブトムシやクワガタを採り、夕涼みがてら、浴衣を着た妹と手をつないで河川敷にホタルを追っかけに行ったくらい、のどかだった。
部屋はエレベーターもない4階建ての1階だったが、やたらと蚊が多かったことが当時の印象として強く残っている。小学校では蚊(アカイエカ)が媒介する日本脳炎の予防注射を打たれたし、団地のドブ板の隙間からはひっきりなしに蚊が発生していた。防火用水の中にも赤い縞模様のボウフラがくねくねと泳いでいた。

白黒テレビを囲んだ一家団らんが終わった夏の夜は、まずはポンプ式の殺虫剤(アースと代名詞で呼んでいた)で目が痛くなるほど部屋中にクスリを撒き、次に、父が大事そうに押入れから蚊帳を出し、部屋の四隅に設置してある金具に吊り下げていく。
蚊取り線香の出番は最後で、僕ら兄妹が蚊帳に入るのを待って母が線香に火を点け、蚊帳の外に置いてくれた。渦巻から立ち上る煙を蚊帳越しに、指でなぞって眺めていた。
家の中で蚊に刺されることなどめったになくなった今ではおよそ想像もつかないが、当時は二重三重に防御するほど蚊が多く、開けっ放した玄関や、建てつけが悪い網戸の隙間からひっきりなしに蚊が入ってきた。
季節になると雑貨屋の店先には渦巻の箱が山のように積まれ、どこの家にも必ず常備されていた。文房具を買う感覚で小銭を握って、よく使いに出された記憶もある。
下水道も整備され、家屋は堅牢になり、エアコンが当たり前となった現代、蚊取り線香はレトロな風物になりつつある。競い合うように貼られた琺瑯看板も役目を終え、昭和の終焉とともに時代の中に埋もれようとしている。
民家の壁や農家の納屋に取り残された看板が、今となっては蚊と“格闘”した当時の生活を思い起こしてくれる。看板を通して、のどかだけど活気があった時代を振り返ることができるのは、いつまでだろうか。



前置きが随分長くなってしまったが、蚊取り線香の思い出をしつこく語らしてもらった。昭和レトロを生きてきた、古い世代の戯言だと思って勘弁してもらいたい。
さて、ようやく本題に入るが、農村や鉄道沿いの民家や蔵で、「金鳥」の看板を貼った風景に出遭ったことはないだろうか。比較的多く残っている琺瑯看板なので、少なからず目にした方もいると思う。自然の状態じゃなくても、レトロ調を売りにした居酒屋なんぞで見たという方も多いだろう。
おじさん世代の日本人ならば、郷愁を誘わずにはいられない風景、そう、琺瑯看板の定番中の定番ともいえる金鳥看板は、調べれば調べるほど面白いターゲットだ。これまで収集したウンチクも長くなりそうなので、前後2回に分けてその謎(大げさ!)に迫ってみたい。



全国を席巻した金鳥看板


今、国内で一番たくさん残っているのが、「金鳥」と「キンチョール」の看板だろう。特徴的な菱形看板は忘れようとしても忘れられない。誰もが琺瑯看板といえば、この組み合わせを思い出すに違いない。
それほど有名な金鳥看板は、昭和30年代後半から60年代初頭にかけて実に30年近くも全国津々浦々に貼られ続けた。国内で8000組、香港でも200組が貼られたという。その貼り方は金鳥とキンチョールの2枚組みを基本に、4枚組みや6枚組みなど、「これでもか!」としつこく貼られているのが特徴。佐賀県では欠落したものを含めて、8枚組みを発見している(上の画像)。当時の看板貼りにかける社員や“貼り師”と呼ばれた業者の情熱に驚かずにはいられない。

金鳥は琺瑯看板の王様


除虫菊の栽培に適している気候の土地・和歌山県有田市付近には蚊取り線香のメーカーが多くあり、「金鳥」の大日本除虫菊、「キング香」のキング化学、「ライオンかとり」のライオンケミカル、「月虎かとり」の内外除虫菊など、琺瑯看板でおなじみのメーカーが集中している。
中でも蚊取り線香の「金鳥」、殺虫剤の「キンチョール」を製造する大日本除虫菊は、創業1885年、企業スローガンは「昔も今も品質一番」というこのカテゴリーのトップ企業である。
同社の歴史をみると、蚊取り線香「金鳥香」の発売は1890年、殺虫剤の「キンチョール」は1934年だった。それ以来、琺瑯看板を始め、タレントを使ったユニークなCM等の広告戦略を展開し、国内シェア一位の不動の地位を占めているのは周知のとおりである。

(画像/大日本除虫菊?日高工場~和歌山県印南町 2008.10.12撮影)


金鳥の琺瑯看板が作成された正確な年ははっきりしないが、有名な菱形看板以外にも、「金」「鳥」と単体で貼られた看板や、丸型タイプ、短冊タイプ、美空ひばりの顔がプリントされたタイプが知られている。また、殺虫スプレーの「キンチョール」には“ハエとるならばキンチョール”というロゴが描かれたタイプ(裏面が美空ひばりバージョンになっているものもあり)と東大阪市付近に残る町名表示看板がある。(以下)。

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さて、現在でもよく見かける菱形タイプの「金鳥」看板は6種類、「キンチョール」は3種類が存在すると考えられる。大きさは畳半分くらいもあり、数ある琺瑯看板の中でも大型の部類に入る。貼られたロケーションも鉄道沿い、バス路線の民家や納屋、商店など人目につくところならどこでも貼られているのが特徴である。「金鳥」と「キンチョール」が対に貼られているケースがふつうで、全国で291組を確認している(調査期間2005年2月~2010年8月)。<つづく>

※次回は、金鳥看板の分類とその貼り方、分布について考察する。

  • つちのこ
  • 琺瑯看板探険隊が行く
  • 1958年名古屋生まれ。“琺瑯看板がある風景”を求めて彷徨う日々を重ねるうちに、「探検」という言葉が一番マッチすることを確信した。“ひっつきむし”をつけながら雑草を掻き分けて廃屋へ、犬に吼えられながら農家の蔵へ、迫ってくる電車の恐怖におののきながら線路脇へ、まさにこれは「探検」としか言いようがないではないか。