
角のたばこ屋との出会いには二種類ある。一つは何度か訪れたことのある街で「あ、今まで見過ごしていたけど、こんなところにもあったんだ(やっぱりここも角か)」というもので、もう一つは、見知らぬ街で「(角のたばこ屋あるかな〜)あ、あった」というもの。
わかりにくいかもしれないが、ここには、じつに微妙な期待感の違いがある。で、どちらがうれしいかというと、筆者の場合は「期待しつつ、出会えた」という後者の方である。予期せぬ出会いも、それはそれでもちろんうれしいのだが、「なんだかこの街には、角のたばこ屋がありそうだな〜」と思って、散策をし、「あ、やっぱりあったー!」という方が、筆者にとっては、長年の勘で事件のにおいを嗅ぎ取るベテラン刑事のような心持ちになれて、してやったり感を得られたりもするのである。
上記画像は、筆者がこの夏に訪れた「荒川遊園地前」にあった、角のたばこ屋である。この地を訪れた理由は、角のたばこ屋を探すのではなく、第一にあらかわ遊園で遊んでみたいと思ったからだ。しかし、都電の駅を降り立ったとたん、何かがにおったのだ。「ここには、ある」。「あいつが、きっと」。そう思ったのだ。数分歩いただけで、Tシャツに汗がにじんだ。駄菓子屋の奥で子どもたちがもんじゃ焼きをつつきあっていた。歩道脇のプールから歓声が聞こえた。「ジッ…」という音を立てて、木から飛び立っていったセミの姿を、何気なく目で追っていった先にあったのは、そう、角のたばこ屋だった。わたしは300円を握りしめ、窓口へとゆっくり近付いていったのだ。
上記画像は同日、あらかわ遊園を堪能したのち、都電に乗って三ノ輪橋に移動したところで、見かけた角のたばこ屋である。この街にもないわけはないだろうと思っていたが、やはりあった。だいたい「ありそうだと思ったらある」というのが角のたばこ屋である。昔すこし流行った歌の中に「悪そうなやつは大体ともだち」という歌詞があった。少し似ているようだが、それとこれとはちがうので混同してはいけない(しないか)。ちなみに、荒川区内で二軒目の角のたばこ屋だが、どちらも屋根看板が赤いというのには何か理由があるのだろうか。
さて、角のたばこ屋鑑賞史上、初の名古屋上陸である。どうして三ノ輪橋から急に名古屋に飛ぶのかというと、数日後、筆者がこの地を旅行で訪れたからである。名古屋ほどの大都市に角のたばこ屋がないわけはないだろうと、やはりこのときも思ったのだが、案の定、名古屋駅を出てすぐのところに見つかった。巨大ターミナルでたくさんの出口があるのにもかかわらず、たまたま出たところに「待ってました」と言わんばかりに、たばこ屋が登場したことには感動すら覚えた。おもしろいのは、自動販売機も売り場もすべてがパコッと壁の中にはめ込まれたような作りになっているところだ。今後、規格外の自動販売機を導入することになったらどうするつもりなのだろう。それにしても、この自動販売機をゾゾゾッと動かすと、奥に長~い地下階段があるような気がするのはなぜなのだろう。
角のたばこ屋を通じて、ひと夏の思い出の一部を振り返ってみた。この夏に出会った、角のたばこ屋たちはどれも「期待をしつつも出会えた」という、ある種、確信犯的な出会いが多かった。これは、あの子はきっとぼくのことが好きなはずだ、と思い込んでいたら、本当に告白されたというような、すばらしき状況にも似ているようだ。しかし、そんなことは今まで一度も経験したことがない。信じられるのはやはり、角のたばこ屋だけなのかもしれない。
上記画像は、筆者がこの夏に訪れた「荒川遊園地前」にあった、角のたばこ屋である。この地を訪れた理由は、角のたばこ屋を探すのではなく、第一にあらかわ遊園で遊んでみたいと思ったからだ。しかし、都電の駅を降り立ったとたん、何かがにおったのだ。「ここには、ある」。「あいつが、きっと」。そう思ったのだ。数分歩いただけで、Tシャツに汗がにじんだ。駄菓子屋の奥で子どもたちがもんじゃ焼きをつつきあっていた。歩道脇のプールから歓声が聞こえた。「ジッ…」という音を立てて、木から飛び立っていったセミの姿を、何気なく目で追っていった先にあったのは、そう、角のたばこ屋だった。わたしは300円を握りしめ、窓口へとゆっくり近付いていったのだ。


角のたばこ屋を通じて、ひと夏の思い出の一部を振り返ってみた。この夏に出会った、角のたばこ屋たちはどれも「期待をしつつも出会えた」という、ある種、確信犯的な出会いが多かった。これは、あの子はきっとぼくのことが好きなはずだ、と思い込んでいたら、本当に告白されたというような、すばらしき状況にも似ているようだ。しかし、そんなことは今まで一度も経験したことがない。信じられるのはやはり、角のたばこ屋だけなのかもしれない。