右文尚武碑(千代田小学校)
 神田は古い街である。しかし、都内の中心部にあって創造と破壊が進み、古い史跡はほとんど見当たらない。それでも仔細に観察すると、興味深い石碑が散在している。
 JR神田駅を東側に出て、五分ほど歩くと千代田小学校がある。その正門前に右文尚武と刻まれた石碑がある。この地には千葉周作の北辰一刀流道場玄武館と、それに隣り合わせで東条一堂の漢学塾瑶池館があった。玄武館は、幕末、「技の千葉、力の斉藤、位の桃井」と称され、幕末、人気の高かった三道場の一つである。新選組の山南敬介、藤堂平助も玄武館で剣を磨いた。清河八郎は、玄武館で目録を授けられると同時に瑶池館で塾頭を務めた。現在は跡形もないが、当時ここにはお玉ヶ池があり、その周辺には玄武館、瑶池館以外にも梁川星巌の玉池吟社、佐久間象山の象山書院などの私塾が開かれており、学問や剣術を志して上京した若者たちはここに集った。「右文尚武」とは、学問と武芸をともに尊ぶという意味である。
 ここから更に東に進むと、岩本町の交差点がすぐ現れる。国道4号線を越えて最初の大きな交差点の角に黒い石碑がある。お玉ヶ池種痘所跡碑である。安政五(1858)年五月七日、幕臣川路聖謨の屋敷内で伊藤玄朴、箕作阮甫、竹内玄同といった蘭学者たちが、種痘所を開いた。この種痘所はわずか半年後、火災で焼けてしまったため下谷和泉橋通りに移った。のちの西洋医学所であり、東京大学医学部の前身である。
この道を南に行くと、岩本町2丁目7の建物の角に、やはりお玉ヶ池種痘所跡を示す石碑がある。

お玉ヶ池種痘所記念碑お玉ヶ池種痘所跡


 ここから更に南に行くと、地下鉄小伝馬町駅が近い。伝馬町にはかつて牢屋が置かれ、多くの罪人がここで斬罪に処された。伝馬町の交差点から少し入った場所にある十思公園が、牢屋跡である。公園に隣接する大安楽寺には、処刑者らを弔う延命地蔵がまつられている。
十思公園には、吉田松陰終焉之地碑があり、松陰の辞世の歌が刻まれている。

 
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂


吉田松陰は、安政の大獄で捕らえられ、ここ伝馬町の死罪に処せられた。直接の罪状は、井伊大老の手足となって京都で暗躍した老中間部詮勝を暗殺しようとした嫌疑であるが、実際には本人の口から発せられる過激思想が幕吏にとって危険に思われたためであろう。松陰は、自分がよもや死罪になるとはぎりぎりまで思っていなかった。しかし井伊直弼の下した結論は斬首であった。死を覚悟した松陰は、家族や知人に平気を装った手紙を書いたが、刑の執行される当日は無念の表情を隠せなかったと伝えられる。 
松陰の遺骸は、門下生であった桂小五郎や伊藤俊輔らに引き取られ、現在は世田谷の松陰神社に葬られている。松陰の無残な死体を見た門下生の怨恨の深刻さは想像して余りある。長州藩が討幕へと急速に傾斜していく端緒は松陰の処刑にあったと言えよう。

大安楽寺 延命地蔵吉田松陰終焉之地碑


十思公園を出たら、伝馬町の交差点を西へ戻る。十分も歩けば、日本橋界隈である。日本橋の橋柱に刻まれた「日本橋」の文字は徳川慶喜の筆によるものである。因みに高速道路に大きな文字で掲げられているのは佐藤栄作首相の筆。日本橋には、江戸開府とほぼ同時期に魚市場が開設され、関東大震災で炎上したことでその役割を築地に譲るまで、江戸の街に魚を供給し続けていた。鳥羽伏見に敗れた徳川慶喜が江戸城に入城して最初の夕食に所望したのがマグロで、日本橋の魚市場からマグロが納入されたという。

日本橋日本橋魚市場発祥の地碑青渕渋澤栄一像


 日本橋を見学したら、北側に戻って少し西に行くと、日本銀行の石造の重厚な建物に出会う。ちょうどその対面が常盤橋公園である。ここにも渋沢栄一の立像がある。兜町は、渋沢が日本で初めてのビジネス街を計画して作り上げた町である。そのことを顕彰して建立された銅像である。
 ここまで来たら東京駅は近い。東京駅周辺にも面白い史跡が散在しているが、それは別の機会にして、今日はこの辺で電車に乗って帰ろう。