普段何気なく見過ごしているバス停の名前が、その土地の歴史や風景の変遷を知る貴重な手掛かりとなる事例として、今回は世田谷区の「南水無」バス停をご紹介します。
 京王線千歳烏山駅の西口を出て、南烏山5丁目の住宅街を抜けると、人通りの少ない裏道にポツンとバスが停車しているのが見えてきますが、ここが千歳船橋行きの京王バスの始発点、南水無バス停です。このバス停は千歳烏山駅のひとつ先に位置しますが、おそらく駅前の道路が狭くてバスが転回できないことから、ここに折り返し用のバス停が設けられたものと思われます。少し離れた場所に降車用のバス停が別にあり、住宅街の道路をうまく利用してバスが転回している様子を見ることができます。

 バス停から駅方向に少し戻ると、南北に伸びる小さな遊歩道がバス通りを横切っていますが、これが三鷹用水こと水無川の流路跡です。すなわち、現在の地図には見あたらない水無の地名は、この川に因む古い地名ですが、遊歩道には「水際の散歩道」という表示があるのみで、かつての水無川の存在を示すような説明もなく、バス停だけがかろうじて水無の名を消滅させまいと頑張っているように見えてきます。

 水無川は、目黒川上流に通じた烏山川の支流で、かつては上流部で玉川上水からの分水を合流させ、灌漑用に水量を確保していたといわれます。烏山から近い蘆花恒春園で、明治末年から昭和初年までのおよそ20年間を過ごした徳富蘆花は、その著書『みみずのたはこと』(大正2年)で水無川について触れていますが、それによれば、冬になると水が涸れたことから水無の名があるといいます。しかし、当時の地図で水無川上流部を辿っていくと、玉川上水から分水された品川用水が水無川上流部と交錯しており、このことで上流部の水流が切断されたことも、水涸れの原因に関係したかもしれません。どちらにしても、水無の地名は水が涸れなければ起こりえなかったかと思うと、地名の面白さを改めて知ったような気分になります。

 遊歩道を南(下流方向)へ歩くと、かつて橋があったことを伝える橋名を刻んだモニュメントが次々と現れます。バス停手前が盛橋で、そこから順に南水無橋、愛(めぐみ)橋、雲雀橋と続きます。流路跡の先を地図で辿ると、川が蘆花恒春園の南側を抜け、希望ヶ丘公園のあたりで烏山川に合流していたことがわかります。その烏山川も既に暗渠であり、下流へ向けて延々と烏山川緑道が続いています。


 一方、北(上流方向)へ歩くと、すぐに千歳烏山駅のホーム下に突き当たります。近くの踏切を迂回して、さらに流路跡の続きを確認してみると、残念ながら駅の向こうは自転車置き場となり、団地の中を蛇行しながら抜けていく様子が確認できます。そしてその先は・・・。こういうところを歩き始めると、私のような散歩者はすっかり冒険気分で、時間の経つのも忘れて歩き続けてしまいます。