暗渠を辿っていると、かつての橋の痕跡に遭遇することが、ままある。
川が流れていた頃に架かっていた橋は、川が暗渠化されたり埋め立てられて歩道や道路となると通行の邪魔となり、それゆえ撤去されてしまうことが多い。一方で、橋の親柱や欄干などが、車止めの代用として、あるいはモニュメントとして残されている場合や、まるごとそのままの姿で残っている場合もある(中には、真新しい橋に架け替えられる場合すらある)。川は暗渠となってその水面を失い、周囲の風景も変わっている。なのに、橋だけは残っている。それは風景の中に潜むエアポケットであり、断層であるといえるかもしれない。

暗渠・川跡に架かる/残る橋や橋の痕跡には様々なバリエーションがある。それぞれをタイプ別に紹介したいところだが、スペースが限られているので、今回は少し視点を変え、橋が架けられた年代に着目してみよう。暗渠が語られる際に、ときどき「昭和の風景」といったようなワードが出てくることがあるが、ここではさらにその前の大正時代、同じ大正13年(1924年)に都区内の別々の場所で架けられ、今もなおその姿をとどめる4つの橋(跡)を紹介してみたい。関東大震災で東京が壊滅状態となったのが1923年のこと。その翌年にこれらの橋は架けられ、橋の架かっていた川が姿を消した後も、86年という歳月をくぐり抜け今まで生き残って来た。

1)新坂橋(三田用水猿楽口分水跡)


 渋谷駅から東急東横線で一駅、代官山駅そばの踏切のすぐ近くに、ひっそりと片方だけ、半ばアスファルトに埋もれた欄干が残されている。親柱に刻まれた名前は「新坂橋」。旧山手通り付近を流れていた三田用水から、渋谷川に向かって流れていた「猿楽口分水」に架かっていた橋だ。反対側の親柱には「大正十三年」と刻まれている。欄干の奥には何年か前まで、かつての水路の痕跡である空き地があったが、現在は東急線の地下化工事に伴う作業スペースとなっている。道を挟んで欄干のない側にはマンションが建ち、川の痕跡は全くない。

michikusa04_02 新坂橋の架けられた翌年、水路が流れる谷の斜面に「同潤会アパート」の建設が始まった。関東大震災からの復興の過程で造られた、当時最先端の鉄筋コンクリートアパート群は、木々の緑に囲まれ独特の雰囲気を漂わせ、代官山の名所となっていたが、90年代半ばに取壊され「代官山アドレス」となってしまった。大規模な再開発によって周囲の風景が地形を含めて一変した中で、新坂橋の欄干が生き残っているのは奇跡的と言えるだろう。特に保存措置がとられている訳でもなさそうで、ここ何年かでも橋の名前のところがだいぶボロボロになったように思える。このまま自然に朽ち果てて行ってしまうのだろうか。

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2)庚申橋(桃園川旧水路跡)


 JR中央線荻窪駅の北西にその流れを発し、東中野駅の南東で神田川に合流していた桃園川は、1960年代半ばには暗渠化され、現在は緑道となっている。桃園川の暗渠にはあちこちに橋が残っているのだが、暗渠の緑道から少し離れた、中野駅南方の住宅地の中にぽつんと、古びているがかなりしっかりとしたつくりの欄干が片方だけ残っている。親柱の片方には「かう志んはし」、もう片方には「大正十三年一月二十六日」と記されている。震災からわずか4ヶ月後だ。かつて、桃園川はこの辺りを大きく蛇行して流れていた。その旧水路に架けられた橋のひとつがこの「庚申橋」だ。川は昭和初期から戦前にかけ直線状に改修され、現在暗渠となっているのはそちらの水路だ。そのため、暗渠のほうに残る橋は古くとも昭和一桁生まれのもの。大正時代の橋の痕跡はおそらくここだけではないだろうか。

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 橋の向こう側にはかつて水路があったはずだが、現在では住宅が立ち並び、空き地が少しだけ残っている他は、特に川を思い起こさせる痕跡はない。橋の脇を通り抜けていく人たちのうち、どれほどの人がこの欄干に気を留めることがあるだろうか。そもそもなぜ、この欄干だけが忘れられたように残されているのか、謎だ。

michikusa04_05新坂橋、庚申橋はいずれも片方の欄干だけが残されている不完全な状態だが、つぎに紹介する2つの橋はほぼ全体が残っている。

3)二軒家橋(神田川笹塚支流暗渠)


 二軒家橋は、大江戸線西新宿5丁目駅のほど近く、神田川笹塚支流の暗渠に架かる橋だ。神田川笹塚支流は、京王線代田橋駅西方にその流れを発し、渋谷区北部を流れて西新宿で神田川に注いでいた川で、渋谷川上流や先の桃園川と同じく、1960年代半ば、高度経済成長期に暗渠化・下水幹線化された。暗渠の上はかつての渋谷川の暗渠上のような、遊び場とも遊歩道とも言えるような言えないような空間や車道・路地になっている。下流部には、川に蓋をしてそのまま下水幹線に転用したようなかたちとなっているためか、数多くの橋が残されている。ただ、暗渠化後の架け替えにより新しくなった橋も多かったり、通り抜けしやすいように欄干の中央が切断されてしまっている橋もある。そういった中で、こちらの「二軒家橋」は、ほぼすべてがそのまま現役で残っている。

michikusa04_06欄干は鉄パイプのシンプルな物だが、下部には半円の穴を配した意匠が施されていて、作られた当時の流行を忍ばせる。ぼろぼろになった親柱に「に○んや」の字が読み取れる。○の部分は漢字の当て字のようだ。欄干の下の橋桁も残っている。ここのすぐ近くには、山手通りの清水橋交差点がある。「清水橋」も同じく神田川笹塚支流に架かっていた橋だ。近年まで昭和11年に架けられた橋の欄干が残っていたが、山手通りの拡幅工事により撤去され、切断された欄干の一部が、半ば放置されたように残っている。

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4)相生橋(玉川上水旧水路暗渠)


 最後は、玉川上水の暗渠に架かる「相生橋」。玉川上水は言うまでもなく、江戸時代から1960年代まで300年にわたって、江戸〜東京の上水道を支えた大動脈だ。1965年に送水先の淀橋浄水場が廃止されると、下流部は一部を除いて暗渠化された。さすがに下水道への転用はされておらず、暗渠の水路は現在でも四谷大木戸まで通じているという。新宿から京王線で2駅、幡ヶ谷駅の近くを流れている玉川上水旧水路の暗渠は、木々の生い茂る緑道となっていて、現在でもいくつも橋が残っているが、暗渠化後に架け替えられているものも多い。そんな中で、親柱に「阿以をいばし」と書かれたこの「相生橋」は、橋桁を含め橋全部がほぼそのまま残っている。欄干はシンプルだが緩やかに弧を描いていて、気品がある。玉川上水が開渠だった頃の写真を見ると、橋の姿は現在と全く同じで、両側はれんが造りの橋台に支えられていたようだ。水面は橋の長さよりも深いところにあり、玉川上水路の規模が忍ばれる。

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 先に記した通り、これらの橋はいずれも1924年(大正13年)に架けられた。前年の1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が起っており、これらの橋は震災からの復興の過程で架けられたと言える。おそらく震災の教訓もあって、当時としてはいわば最先端の鉄筋コンクリートで、そしてある程度頑丈に架けられたのだろう。震災直後の架橋は、周囲の住民にとっては様々な感慨をもたらしたのではないか。また、いずれの橋も山手線の外側にあり、震災後に急速に都市化が進んだエリアにもあたる。橋が架かった時点ではおそらく周囲は長閑な田園風景だったろうが、その後の風景は一変しただろう。
これらの橋はその後、戦争をくぐり抜け、高度経済成長期やバブル期の開発をやり過ごし、橋の架かっている川が姿を消し、周囲の風景や建造物もどんどん変わって行く中で、それぞれの場所で、86年という歳月を生き残ってきた。
 水の流れる川に架かっている橋ならば老朽化による架け替えなどもあろうが、川が無くなってしまい、橋としての機能を失ったが故に、これらの橋はめまぐるしく変わり続ける東京の風景の中で、忘れられたかのように、架けられたときの姿を(一部だとしても)留めている。一方で、これらの橋は特に「保存」されている訳ではない。歳月の流れは否応なくコンクリートを風化させていくだろうし、いつなんどき、行政の気まぐれで、撤去されてしまったりつくり替えられてしまうやもしれない。

かつて、橋の下をさらさらと流れていた川の水、日々の暮らしの中で橋を行き交った多くの人々。中には欄干にもたれて一休みする人もいれば、橋から水面を見下ろす人もいただろう。あるいは橋から川に落ちた人もいるかもしれない。そして年月とともに、橋を渡る人も、その姿も変わり、橋の下の川も使命を失い、その水面を失った。取り残された橋は、過ぎ去った年月の中で降り重なった川と人の失われた記憶を秘めて、町の片隅にひっそりと潜んでいる。その姿に、時には歩みをとめて想いを馳せるのもいいのではなかろうか。