浅草は、東京でも一番の観光地と言って良いだろう。いつ訪れてもたくさんの観光客で賑わっている。
 浅草寺周辺の喧騒から離れて、隅田川沿いに北上する。右手に墨田公園を見ながら十分ほど歩くと、今戸神社に出会う。どこにでもありそうな神社であるが、本殿の前に「沖田総司終焉之地」と書かれた石碑が建てられている。

今戸神社沖田総司終焉之地碑千駄ヶ谷 池尻橋跡
植木屋平五郎宅跡地


 新選組の沖田総司が最期を迎えた場所には二説あり、一つがここ今戸付近で松本良順の治療を受けていたという説。永倉新八の証言に基づくものであるが、松本良順は近藤勇とも深い交友があり、その点からも信憑性は高い。もう一説は、有名な子母澤寛「新選組始末記」に記述された千駄ヶ谷池尻橋際の植木屋平五郎宅である。目を閉じたまま

「ばぁさん、あの黒い猫は来てるだろうナ」

と口にして果てる姿は、若き天才剣士の最期に相応しい。子母沢寛は、敢えて――― この話は、介抱の老婆が沖田林太郎夫婦に語った実話である――― と記しており、これが創作ではないことを強調している。永倉新八の懐旧談も記憶違いが多いので“今戸説”も端から信じられるものではない。子母沢寛の作り話である可能性も否定できないが、気分的には「黒い猫」の話は沖田の最期に相応しいように思えてならない。

穪福寺保元寺


 今戸神社の北側には、穪福寺と保元寺という二つの寺院がある。
 稱福寺は、鳥羽伏見の戦いのあと、旧幕軍の負傷者を収容する臨時病院となった。松本良順は、家族とともに今戸神社に起居しながら、稱福寺の患者を診療したという。
 保元寺は、榎本家の菩提寺である。五稜郭の戦争で敗れた榎本武揚は、明治五年(1872)一月に赦免されたあと数カ月謹慎生活を送った。

墨田公園
明治天皇御製碑
明治天皇行幸對鴎荘遺蹟碑多摩市 對鴎台公園
明治天皇行幸對鴎荘


隅田川に沿って南北に五百メートル余りにわたって墨田公園が広がっている。その北端に近い場所に明治天皇の御製を刻んだ石碑が建っている。明治六年(1873)、對鴎荘の三条実美を見舞った明治天皇は、その帰路伊達宗城邸に立ち寄り、ここで休息をとった。そのとき詠んだ歌である。

いつみても あかね景色は 隅田川 難美路の花は 冬もさきつつ

更に北に行くと、白鬚橋の西詰め南側に対鴎荘跡を示す立派な石碑が建っている。書は田中光顕。明治六年の政変で昏倒した三条実美が療養したのが、当地にあった三条の別邸対鴎荘であった。対鴎荘の建物は多摩市の對鴎台公園に移築され長く保存されていたが、昭和六十三年(1988)老朽化のため取り壊された。

 明治六年(1873)の政変の転換点となったのが、太政大臣三条実美の昏倒であった。西郷隆盛を使節として韓国へ派遣することを巡って政府内で対立が続いており、心労が極まった三条実美は倒れて人事不省に陥った。これを好機と見た大久保利通および長州派は、岩倉具視を太政大臣代理に任命し、閣議の結果とともに使節の派遣は韓国との戦争を招く恐れが高いとの意見を付して天皇に上申、これを受けて西郷の派韓の件は却下されたのであった。

 三条が昏倒したのは、決して演技ではなく、心労が積み重なった上に一種のヒステリー状態になったものらしい。当人が意図したものではなかったにしろ、政局を転換させる役割を果たしたことは間違いない。当の本人はその後政務に復帰したが、事実上政治生命はここで絶たれたといっても良い。

 三条実美は、幕末には超過激派公卿として力を持った人物であった。八一八の政変の前夜、天皇の大和行幸などの画策の中心に三条はいた。そのため三条は孝明天皇から非常に嫌われた。それでも意思を曲げずに長州まで落ち、以後長州藩の庇護を受けながら維新を迎える。維新後も太政官政府の要職に就き、公家出身の政治家として最も期待された人物であった。しかし所詮国家の舵取りができる能力には欠けていることが、期せずしてこの政変で実証されてしまったのである。

 明治六年政変は、明治初期のターニング・ポイントであった。明治初年の政治史を学ぶのであれば、中公新書 毛利敏彦著「明治六年政変」は、もはや古典的名著と呼ぶべきであろう。一読を薦めたい。